随想 乃字鐔は神君家康公の換喩(象徴的標示)か
筆者は嘗て岡崎市が所蔵する乃字鐔(資料1)を三河武士のやかた家康館において経眼したことがあり、その折に構図の意味が未だ解明されていないことを知って調査を思い立った。
爾来さまざまな資料を渉猟し一つの推論にたどり着いたが、刀剣美術第七八三号(令和四年四月号)にも板垣良行氏の〈資料紹介「乃字」鐔についての一考察〉が掲載され、乃字が文武両道を意味する乃武乃文の一字略であり、かつ月に浮かぶ乃字を取ろうとする猿猴捉月図でもあるとの趣旨が展開された。
しかし然様であれば武士の志を猿猴ごときの手に届かせようとしている、或いは文武両道をめざそうとする武士を猿の擬人化で揶揄しているやに映り、釈然としない違和感を覚えるが、それとは視点を違えた筆者の短見とそこへ至った過程も披瀝し、究明へ向けた一石を投じたい。
乃字鐔は左程珍しいものではなく、文字だけ地透かししたものと、それに猿を付け加えた構図の二種類(参考1)があるが、概して大きく時代が上がるものはなく、作風は円形鉄地で共通する。
また猿の存在については、乃字単体でも構図として成立していることから、そこに重要な性格は託されておらず、補助的な添景と見るべきであろう。
さらに鐔に見られる絵画的意匠は、帯刀時に構図の見どころが柄や鞘の陰へ隠れないために、表側は時計の十時から四時にかけての範囲に主役を置き、裏側は八時から二時の間に脇役を配置させたものが多いが、そうした手法に照らしても、この猿の置かれている位置は端役に過ぎないといえる。
ちなみに株式会社刀剣柴田発行の通販誌『麗(今は廃刊)』において、乃字を鳥居に見立てた日枝山王の(参考2)であろうかとした解説を度々見たが、鳥居の見立てかどうかはともかく、参考1の中央列一番上の乃字右下にある小さな輪は、鳥居の鐶(参考3)を連想させ、文字に動物という心象風景と、猿の下にある芸棒(注1)らしきものが、使役されている寓意と捉えられることから、尤もな見解であると支持したい。
しかし肝心の乃字については、熟語や慣用句・禅句・古歌などの検索から試行錯誤を重ねたが、乃字に何らかのメッセージがあるという先入観に支配されていた間は一向に進展がなかった。
そこで或る種符牒の類ではないかとの観点も頭の隅に置いていたところ、図らずも尾張コ川家に関する郷土資料を糸口にして、コ川家康の花押を構成する一字を借用した可能性があると気付くに至った。
花押は書判ともいい、捺印代わりに押著する独自の私製文字であるが、大きく分類すると草名体・一字体・二合体の三型があり、松平元康からコ川家康へと改姓改名した頃から用いだした花押は二合体で形作られているという。
この二合体とは一般的には実名の一字の部分と別の一字、あるいは二字の各部分を組み合わせて一文字体とするものであり、実名とは無関係な理想や願望文字を選ぶことも珍しくない。
今日その道の研究者間では、家康が使った花押(参考4)は、天地の太い二線を基本にして、コの原字である「悳」の草体を組成した(注2)ものと考えられている(注3)。
ところが尾張コ川家の家臣、近松茂矩(注4)が編輯した筆録集『昔噺(注5)』には、「家康公御書判の形は一乃一なり これは御代々御伝来の乃の大黒とて一筆書きの大黒あり 或人は南朝の王子宗良親王の御筆といふ これを御写しありて如此御判に被遊ぬとぞ 此大黒の一幅 後には源敬公(注6)へ御ゆづりといふ」との記述が見られ、少なくとも江戸中期までは乃が底字であると認識されていたことを知見した。
文字研究の学徒でもない筆者には何れが真相か判断できないが、ここでは親藩筆頭家とはいえ一藩士に過ぎない人物にまで、そのような伝承が浸透していたという史実だけで充分である。
つまり直参・陪臣を問わずコ川一門に臣従する者にとっての「乃」は山王一実神道で神君に祀られた家康公、すなわち東照大権現を暗示するものであり、密教における種子字(注7)と同様な象徴文字と解釈できる道が開けてきたのである。
この山王神道を介し展開することで、乃字と猿との相関関係に思い煩うことはなく、芸棒が使婢であることを仄めかす演出道具であると同時に、主神の乃字を畏み、参考2に見るような馴れ馴れしさを排した控え位置になっていると解釈したい。
なおこの推論は、そうした判じ絵まがいの換喩に頼らなくとも、なぜ東照大権現と直接文字彫しなかったかという新たな疑問を派生させるが、それについて筆者は嘗て、家康公生誕の地、三河に鎮座する瀧山東照宮の中川宮司から、家康公のご威光と神格の高さは、譜代大名が当宮へ幣帛(奉納)を願っても叶うものではなく、歴代岡崎藩主でさえ昇殿も許されなかったと伺ったことがある。
すなわち神君家康公という尊称は、神格化された君主を意味したものであり、死した後も臣下の礼をとり続けた彼らにとって、主君名でもある御神名を濫りにするなど畏れ多いことであったに違いない。
従って乃字鐔を腰間に飾るということも、祈りの対象としてではなく、神君家康公に対する崇敬心、さらにはコ川家への忠義の証でもあったのだろう。
しかしコ川の世が崩壊し、薩長藩閥に政権の座が移ったことで忠誠心の拠り所を失うと、その後の廃刀令を待つまでもなく人目に触れることが憚られるようになり、構図の意味を語り継ぐ人も絶えて今日に至ったと推量する次第である。
近藤邦治
注1:芸棒は猿曳(猿回し)が使う ♀ 形をした道具の仮称であり、正式名は定かでない。
注2:二合体でも天地の二線を引くものは、明朝体と細分化される。
注3:主な学術図書として、佐藤進一氏著『花押を読む』が上げられる。
注4:四代藩主コ川吉通の側小姓、馬廻組等を経て尾藩兵学の教授となる。元禄十年(1697)〜安永七年(1778)享年八十二歳。
注5:原著は名古屋市蓬左文庫蔵。主に尾張コ川家初・二代藩主を重心にした、四代目までの行状記。
注6:尾張コ川家初代藩主義直公の諡号。
注7:しゅし・しゅじじとも。仏や菩薩を象徴する一字の梵字(サンスクリット文字)のこと。