論文「関伝中興の祖 和泉守兼定と藤原利隆」


まえがき


 昭和五十六年初春、当岐阜県関市に於て発見された高石氏所有の刀
(図1)を彼が美術刀剣保存協会本部の貴重刀審査に出品したところ、

  裏  関住兼定同作
  表  藤原利隆作 花押
  刃長 二尺一寸三分余り

協会会長であった本間薫山先生より「刀として出来も良く、資料的価値が
大きいので岐阜県県文化財に申請してはどうか」とご親切なお手紙をいた
だいた。

 実は彼が本刀を発見した際に正真珍品也と小生が鑑定した関係から、
その親書を早速持参し相談に来たのです。 そこで関市の文化財係の方に
相談した結果、当関市では個人の所有物は市文化財の対象としないとのこ
とで県文化財にする途がとだえていることを知り、がっかりした次第です。

 しかし、本間先生のお手紙により我々郷土刀の愛好家は目がさめたよう
な気持になり、おくればせながら藤原利隆なる人物と二代兼定との関係に
ついて研究し、その概略を知り得たので拙文ながらまとめてみました。

 何分にも今から四百五十年前のこととて、現在残存する古文書の一部を
参考にしながら編纂されている諸文献にはそれぞれ多少の相違点があり、
どの文献を見ても完全無欠であるとは考えられず、したがって、私なりに
一応納得のいくようにまとめた次第です。



(一)藤原利隆について (図2、土岐・斎藤系図参照)

 斎藤家は美濃国守護職である土岐家の代々執権職を務めた家柄で、約二
百年間にわたり土岐家を補佐した名門である。
 八代目守護職土岐成頼は応仁文明の乱の際、山名宗全方につき西軍の重
鎮であった。十一年間続いた戦乱中、京都に滞在してその間本国の美濃を
顧みなかった。そのため留守を預かる守護代斎藤妙椿は着々と国内を平定
し、中濃、西濃、東濃は勿論、伊勢の一部までも勢力下に置き、主家土岐
氏をしのぐ勢いとなった。

 したがって応仁文明の乱が終了し帰国した土岐成頼は美濃国守護職は名
目のみで真の政治的実権は斎藤妙椿の手中にあった。戦国時代に突入する
前兆、即ち世にいう下剋上の様相はご多分にもれず美濃国にも存在してい
たのである。ただし、美濃国は土岐、斎藤両氏の権力の伸長により、全国
で最も安定した地域であった。特に土岐、斎藤両氏は歴代文芸を愛好する
ものが多く、戦火で荒廃した京都の公家、文化人などを積極的に迎え援助
保護したため、前関白太政大臣一条兼良を始め多くの有名人が革手城(岐
阜革手)を訪れたので、当然城下の繁栄をもたらし、一大文化圏を形成し
ていた。

 しかし、斎藤妙椿死後、養継子利国の代ともなると、戦国時代の様相を
むきだしに主家土岐家の世継争いにより父子(利藤・利国)共に敵味方と
なり、骨肉の争いを展開し自滅の一途をたどるのであるが、世にいう明応
四年美濃国船田の乱がそれである。

 船田の乱に勝利した斎藤利国、利親父子はその余勢をかって翌明応五年、
かねて宿敵であった近江の六角氏を討たんと兵を進め、その一部を占領
したが占領地の土民柿帷衆(馬借=馬による荷駄の運送業者)数万に包囲
されて当時連戦連勝の強さを誇った斎藤の正規軍が土民軍に壊滅的敗北を
きっし、利国、利親父子は多くの家臣と共に自害してはてたのである。

 したがって、この時点から美濃国は政治的軍事的に空白状態となり、
国内の武士の争いや、隣国大名の侵入が続出した。こんな世相の最中にい
よいよ本題の藤原利隆の出番となるのである。

 藤原利隆は、父斎藤利国(近江にて自害)と母一条関白兼良の娘細姫の
二男として文明六年に生まれる。幼名を大黒丸といい、明応六年元服して
斎藤又四郎と称し、長井豊後守利隆ともいい、竹ヶ鼻城主であった。永正
二年頃より藤原利隆として関市近在の社寺に禁札を発布している。持是院
妙全の名で大永七年十月二日付の書状を最後に全く岐阜県県史から姿を消
している。その後は多分隠棲生活を送り、天文七年七月十日六十一歳でこ
の世を去ったのである。

 以上が藤原利隆の概要であるが、ここで彼が生き抜いた時代の主な出来
事を拾ってみることとする。

 明応六年、斎藤利国、利親父子が近江で自害した後は、美濃国には利国
の孫に当り利親の子の勝千代が革手械にいたが、彼は幼少のため政務遂行
は不可能なので、叔父に当る竹ヶ鼻城主長井豊後守利隆(藤原利隆)がそ
の後見人として革手城に
入城し、勝千代(斎藤利良)の補佐役となる。その後、永正十四年まで
約二十年間は美濃地方の実権は不安定ながら藤原利隆の手中にあったもの
と推察される。

 永正十四年、土岐氏の内訌が発生し、十代守護職土岐政頼と弟の頼芸と
が兄弟仲が悪く争いとなり、兄政頼方には斎藤利良が味方し、弟頼芸方に
藤原利隆がつき、またも兄弟叔父甥と骨肉の争いが始まった。その結果、
藤原利隆方の勝利となり、負けた政頼、利良両人は越前朝倉氏をたよって
美濃を脱出する。
 土岐政頼は間もなく足利将軍のとりなしで帰国し、土岐家十代を継ぐが、
斎藤利良は越前より帰らず、必然的に藤原利隆は宗家斎藤家の権力者と
なる。

 この戦に初めて顔を出し利隆方を援助したのが西村勘九郎、即ち彼の
有名な斎藤道三で、又の名が斎藤山城守政利である。
 さて、この頃ともなると斎藤家の実権を掌握した藤原利隆も最早昔日の
面影はなく、宿老制、又の名を三奉行制(守護、守護代、小守護代)の三
人合議制でようやく美濃国の国政を守ったようである。

 次に大永五年、長井氏のクーデターがあり、その隙に力を蓄えた小守護
代斎藤道三は斎藤利隆と養子縁組を結び、名門斎藤家の名跡を手中に収め
るのである。したがって利隆は自分できずいた稲葉城(岐阜)を降り、
大永七年十月二日、武芸八幡分陽寺に長井氏と連名で書状を出しているが、
この時の名は妙全とあり、これが最後の書状となった。多分この時再び
もとの豊後守利隆にもどったものと考えられる。

 これで約二百年にわたった土岐、斎藤両氏に依る美濃国支配は全く終了し、
続いて斎藤道三の舞台が美濃国に展開して行くのである。

 以上で藤原利隆についての説明を終り、次に二代兼定との関係を考えて
みたい。



(二)藤原利隆と二代兼定との関係 (図3を参照)


(1)兼定と利隆の年齢

 初代と二代が銘を区別するため(私はこう考える)、二代が「之定」に
改名したのは確か明応八年から文亀二年の間で、即ちこの三年間のあいだに
改銘されたものと考えられる。
 二代兼定が「之定」に改銘した時、ちょうど藤原利隆は二十八歳から三十
歳の頃で革手械に在り、勝千代(斎藤利良)の後見人として名実共に美濃国
の実力者で即ち守護代の代理という地位にあった。

(2)合作刀作刀の時期

 文亀二年及び永正元年頃の濃州関住兼定作銘すなわち初期「之定」銘時代
の刃文は整然とした低い箱乱れ等を連ねた匂い出来が多く、美術的には見ど
ころが少ないようだが、このたび出品された高石氏所有の合作刀は、関住銘
ながら関伝特有の箱兼房、互の目尖り刃等を混えていることは同様であるが、
物打辺にはずいぶん派手な互の目丁子風の刃文を見受ける。
 このことから相州伝に移行する直前すなわち永正十五、六年頃(この頃
和泉守も受領したようである)の作ではないかと思考される。

(3)和泉守受領の経過

 私の資料によれば、兼定が受領銘和泉守を最初に切ったのは永正十七年で
ある。この時、藤原利隆は四十六歳で第一線で活躍中とはいえ晩年に当り、
「兼定」もまた相当の年齢に達していたことが考えられる。
 戦国時代の真直中とはいえ、藤原利隆は中央すなわち京都とのつながりは
依然深く、前述の如く母は一条兼良の娘細姫であり、時の関白太政大臣一条
冬良は叔父に当り、弟は京都妙覚寺に入り、一乗日善上人の弟子となっている
こと等から、利隆の骨折りにより兼定が和泉守を受領したことは全く疑う余地
がないように思われてならない。
 刀剣史上、兼定が最初に受領銘を切ったことについて昔から多くの研究者が
種々の推論を述べられて来たが、今こそその謎を解く糸口が一歩前進したこと
を私は確信する。

(4)両者の晩年

 藤原利隆は晩年、持是院妙全と名乗り、大永七年十月二日、分陽寺あての
書状を最後に美濃国の政界から姿を消しているが、兼定もまた、左の当関市
在住岸田氏所有の刀を最後に、鍛刀界から身を引いたのか、以後の遺作を知ら
ない。

 刀 表銘 和泉守兼定作
   裏銘 大永六年三月吉日

 兼定宗家を三代にゆずり、自分は隠棲した模様である。
 利隆の隠棲と全く時を同じくして兼定の作刀を見ないのは偶然の一致とは
どうしても考えられない。恐らく二人は深い親交に結ばれ、一心同体、進退を
共にしたように思われる。

(5)刀工総覧説

 刀工総覧に、藤原利隆、美濃永正頃と一人鍛冶を挙げてある。私も現物刀を
拝見していないので断定はできないが、恐らくはこのたび出品された合作刀と
同様に、大名の余芸か、あるいは領民に対する士気の鼓舞に使用されたもので
あろうが、殆ど兼定の代作と見た方が無難なように考えられる。
 ただし、利隆が鍛刀技術を心得ていなかったという確証のない限り、結論は
現物刀を実見するまで待ちたいと思う。

(6)秘談系図説

 秘談系図には、「和泉守兼定は二代で、初代は信濃守を受領し、禁中にて
菊紋を許され、はばき元に菊紋または枝菊を切り、一文字を切る事もあり」
とある。
この文献をもとに地元関市ではその出所は不明であるが、さらに飛躍した伝説
的物語までがまことしやかにささやかれている。すなわち、二代兼定は親孝行
者で自分が受領銘を戴く時、父より先では不敬に当ると辞退したので、父が信
濃守を受領した後に和泉守を受領したという説である。

 しかし、藤原利隆の援助により二代兼定が和泉守を受領したのが余りにも
晩年であることから、初代が信濃守を受領し、菊紋を切ったことは年代的に
無理があり、信濃守銘の初代刀が現存しないので、この説には多くの疑問点
がある。

(7)利隆の勢力圏

 永正五年、藤原利隆名で禁札を出した武芸の八幡神社は関市より西方へ
約四キロで、永正八年に再び禁札を発布した蜂屋の瑞林寺は関市より東方
へ約四キロの地点に位置する。
 したがって、兼定在住の関市周辺は永正時代当時には藤原利隆の勢力圏
内であったことが十分に伺える。



(三)合作刀の解説

 最後になっていささか本末転倒の感はあるが、本刀が正真正銘しかも
貴重刀であると鑑定された理由を少し述べてみたい。
 本刀は室町時代中期作の刀としては少し寸づまりの感はあるが、造り込
み等すべてこの時代の関伝を具備しており、優秀刀であることは勿論であ
るが、特筆すべき顕著な決め手は花押にある(図4を参照)
 古刀期間約六百年にわたり数多くの作刀を見たが、刀匠銘と共に花押の
ある刀剣は平安時代の一、二例を除きその例を見ない。

 このたび発見された藤原利隆花押刀が室町中期の作であれば、やはり
珍品といわねばならない。しかもそのむずかしい花押が実に驚くべきこと
に流暢な鏨運びで彫られていることである。この花押は利隆が美濃国守護
代補佐役として諸所に発布した禁札の花押と全く一致するのである。
したがって、この花押こそ本刀を正真正銘疑う余地のない不動のものと
したのである。



(四)利隆は唯一人

 室町時代後期の美濃国古文書には、「長井豊後守利隆、藤原利隆、斎藤
利隆、豊後守利隆」などとあるが、これは同一人物であることは明らかで
ある。すなわち、利隆が若年時で竹ケ鼻城主時代は長井豊後守、次に革手
城へ入城後には斎藤または藤原を名乗り、晩年になって斎藤道三と養子縁
組して斎藤家の名跡を奪われて再びもとの豊後守にもどっただけである。



(五)永禄八年関市近在

 永禄八年頃、豊後守利隆の子といわれる長井隼人佐道利が関市安桜山城
主であった頃の関市を中心とした近在の豪族の配置図(図5を参照)
注目したい。我々が現代の概念で考えれば、小さな字または小村程度の支
配者が何々の守と受領銘を持つ者が多いことに特に注意されたい。

 恐らく当時としては日本国中何処を見ても余り例を見ない状況であり、
関市周辺に限定された特種な現象である。利隆と中央政府の中でも特に関
白家との深い関係により生じた現象で、受領銘の裏には何程かの献上物が
動いたことも想像に難くない。



あとがき

 一振りの発見刀から古い歴史上の事実を汲み取ることの楽しさと大切さ
とをしみじみ味わいました。まだまだ研究不足であり、資料の乏しさと浅
学のため、主題に対して万全の論文とは毛頭考えていません。私相応に
まとめたつもりです。何かのご参考になれば幸いです。

 さて、小生の研究に基づき、昭和六十一年一月に、関市が兼定屋敷跡を
発掘して数々の証拠遺物を発見し、最近、遺跡として指定される運びとな
りましたので、ここにご報告申し上げます。


(注)銘(表)藤原利隆作、(裏)関住兼定同作の刀は小生が論文を作成
した当時の所有者高石氏から岐阜市立歴史博物館に、昭和六十年所有が
移動しております。


(参考)
 一、県文化財 刀 銘 濃州関住兼定作
            奉山王二十一社
 関市下有知地区には、山王という地区が昔から存在し氏神様として山王
神社がある。二十一社は、釈迦、文珠、不動、毘沙門、薬師、阿弥陀、千手、
十一面、地蔵、普賢、虚空蔵、如意輪、吉祥天、大威徳、胎大目、摩利支天、
龍樹菩薩、聖観音、弁財天、愛染王、金大目で、山王神社は二十一社を合祀
した社である。

 一、刀 銘 濃州関住兼芝作
       文亀二年八月目
 和泉守兼定が、晩年すなわち文亀二年頃より斎藤利隆に従い、関市に移住
したことが立証されるものである。


参考文献 岐阜県史 岐阜市史(通史編) 
     関市史 濃飛両国通史 刀剣書類多数


岐阜県関市仲町十七番二十六号 篠田幸次(しのだこうじ・岐阜県支部顧問)

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利隆研究中の新発見 −岐阜改名時期に対する疑問−

 大正初期に発行された刀工総覧(川口防著)その他に「濃州岐阜住具衡 
大永頃」とはっきり掲載されている。現在岐阜市史をはじめ歴史書には、
永禄十年、稲葉城を陥れた信長が、尾張政秀寺の開山沢彦宗恩の案により
井ノロを岐阜と改称したと記されているが、参考資料の「大永元年八月日」は、
永禄十年より四十六年も前に岐阜という地名が存在していたことを証明して
いる。とかく古文書が中心で、古遺物の物的証拠が軽視されていることを残念
に思う。刀剣は古くから系統づけて研究されており、長期保存に耐え、武士の
魂として尊重されたので、古遺物の中では最も信愚性が高いものである。