新編 岡崎市史

第五章  城下町岡崎の発展と推移
 第一節 城下町の諸相


材木町の鍛冶屋

鍛冶とは主に鉄などの金属を鍛え加工する技術を指すが、鋳物師や番匠(大工)などとともに
技術を持つ職人の代表のような存在であった。鍛冶製品には武器・農具・日常生活用品にいたる
までさまざまあるが、中世以降は刀剣を作る刀鍛冶、鋤・鍬などの農具を作る鍬鍛冶、戦国期に
なって鉄砲鍛冶が出現、包丁などの刃物を作る包丁鍛冶など、江戸時代はそれぞれの製品ごと
に分化して特産地が生まれていった。しかしいずれの土地にいるような鍛冶は農具や工具、その
ほかの生活用具などを需要に応じて生産していたものと思われる。


 岡崎城下町における鍛冶屋は享和年間頃、表5−6のように総数は六五軒と城下の職人の
なかで最も多い。 なかでも材木町の三八軒は際立っている。この時期の材木町の総家数
一七九軒のうち、職人は鍛冶のほか大工一四軒・指物屋一五・桶屋一五軒をはじめとして
さまざまの職人が一○七軒で住民の六割以上が職人たちによって占められていたが、なかでも
鍛冶屋が最も多い。


 岡崎城下の鍛冶職人たちもそれぞれ得意の製品をもっていたと思われるが、材木町以外の
鍛冶屋がどのようなものを作っていたのか詳しいことはわかっていない。 材木町に鍛冶職人が
大勢集住したのは、天正一九年に岡崎城主となった田中吉政やその後の本多康重が、
城下町作りの一環として材木町の東方の久後切と称す場所に鍛冶職人集団的に住まわせた
ことによる。そのいきさつは第二章第一節や本節で触れているとおりである。江戸時代になって
武具などの需要が少なくなると、多くは鍬鍛冶などに転化していったと思われるが、材木町の
場合は鍬鍛冶になった者もいたが、次に紹介するようにやや特種な鍛冶屋が多くいたのである。
弘化年間より文久年間にかけて夏目可敬が記した「参河名所図絵」につぎのような記事がある。


火打鍛冶   木町(材木町は通称木町とも称した)の両側、鍛冶軒を並べて火打を作り、諸国に
         鬻ぐ、世々火打と称へて当所の名物とす

駒の爪紡錘  右側に在り、紡錘は当所を以て最上とす、故に東西遠国までも駒の爪の銘を伝え
         て之求む

鍛冶兼有   新刀弁疑に云、兼有三州岡崎住とあり、鍛冶余考云、兼有二人濃州志津一派、
         二字銘に打つ、応安の頃、又濃州室屋関一派二字銘に打つ、天文の比なり


 火打鍛冶・つも鍛冶・刀鍛冶が材木町の名産として知られていたという。 火打は発火具で
あるが、本来は火打石のみを打ち合わせて用いていたが、その後、手頃な木片に鋼鉄を嵌め
込んだ火打金というものに、火打石を打ちつけて効率よく発火させるようになった。材木町の火打
鍛冶はこの火打金を作っていたのである。日常必需品の火打金は需要も多いうえ他の鍛冶製品
に比べ作り易かったのか、火打鍛冶が軒をつらねていたというのである。


 次に駒の爪紡錘について記す。 「駒の爪」とは本来梵鐘の縁の外に膨らんだ部分の呼称で、
糸を紡ぐ道具の紡錘がこれに似ているところがら名付けられたいわゆる商品銘であろう。江戸
時代はきわめて綿作の盛んな当地方であったから需要も多かったと思われるが、それにとどま
らず「駒の爪」銘の紡錘は遠国にまで知られていたという。徳川家康が元亀二年(一五七一)に、
八町の住人の商人頭浜島新七に駒の爪紡錘の運上取得権を与えたといわれる。もとは矢作宿・
八町の鍛冶職人によって作られ、材木町の成立にともない八町から移住した鍛冶に受け継がれ
てきたものであった(『旧市史 第参巻』二九八頁、『中世2』一○○八頁)。 「竜城中岡崎中分
間記」に、駒の爪運上は八町から移住した浜島家が宝永年間に退転するまで収納し、伝馬町の
入用に当てられていたと記されている。


 図5−5は尾張藩士高力猿猴庵が『東街便覧図略』(天明六年〜寛政七年頃成立)に描いた
材木町の様子であるが、これに「岡崎、つもの本家あり、駒の爪屋彦右衛門と号す」と記されて
いる。 しかし彦右衛門家の史料が伝わらないため詳細は不明であるが、天保三年(一八三二)
八月の城下の火災で鍛冶屋が多く住んでいた町内の地は焼失し、かなり衰微したようである。
『旧市史 第参巻』所収の火災以後の材木町町並図(年代は確定できないが、馬問屋跡の記載
があるので天保四年以降の成立)によると、明家、日雇取、小商いなどの家が目立ち、鍛冶職人
は材木町全体で二九軒と減少している。この町並図には鍛冶屋のなかでは最も間口も広く「つも
鍛冶 彦右衛門」と記されている。彦右衛門家は他の零細な鍛冶屋にも紡錘を作らせまとめて
販売していたのではなかろうか。


 明治期になってマッチの普及などにより火打具は使用されなくなり、また洋式の紡績工場が
大々的に発展しはじめると在来の紡錘は顧みられなくなった。



城下町と岡崎藩の刀鍛冶

 材木町の刀鍛冶兼有は、享和の書上のほか、旅行便覧ともいうべき『東海道巡覧記』(安永
五年版)などにも紹介されており、岡崎宿の名産として知れわたっていた。とくに、「駅路の杖」に
「名物ハ兼あり小刀」とあるように、その小刀は有名であり、贈答品としても利用された(極楽寺
文書「雲山年譜」明和八年正月十五日条)。


 兼有は、井田町の持法院に残る過去帳によると、美濃国関出身の甚太郎が来住して開基と
なったとされる。初代甚太郎(戒名は風外常光信士)は、寛文七年七八歳で没したとされるから、
天正一七年頃の生まれということになる。関鍛冶の室屋派には「兼あり」を称した刀鍛冶集団が
あり、おそらく甚太郎もその系統と思われるが、慶長二年(一五九七)「関鍛冶惣連名」(岐阜県
関市久保家文書)に記された室屋派「兼あり」には甚太郎名は見当たらず、断言はできない。
美濃国関の刀鍛冶たちは、移動性に富み、室町期より各地に移動、移住して鍛刀している。
中世矢作で栄えた薬王寺派刀鍛冶の兼春も美濃から移住した刀鍛冶であった。戦国期諸国へ
移住していった美濃国刀鍛冶たちは、近世城下町が成立すると、そこに定住するようになる。
岡崎の兼有開基となった甚太郎も、その一人であったと思われる。


 兼有には甚太郎家のほかに、同家より分出した太郎右衛門家があった。 前記の持法院
過去帳は、もとはこの兼有太郎右衛門家に伝わったもので、これによれば、甚太郎家二代目
(戒名独外法順信士、宝永六年没七四歳)の子である孫右衛門(戒名通山宗円信士、元文五年
没七二歳)は、幕末まで七代続く兼有太郎右衛門家の開祖となった。 持法院にはこの過去帳
のほか、太郎右衛門家初代の肖像画、同家にかかわる位牌、「三州住藤原兼有」と銘を切る脇差
(『美術工芸17』六一二頁)、「火打や かねあり」と書かれた看板などが伝わるが、これらは太郎
右衛門家の子孫にあたる服部家に伝わったものであり、後世同寺に預けられたものである。
なお、兼有甚太郎一族の名は、竜海院過去帳(国立公文書館内閣文庫蔵)に見られ、同家は
竜海院を檀那寺としたと思われる。


 高力猿猴庵の書『東街便覧図略』に、「数多の商買軒をつらねし中に兼有という鍛冶屋の軒高く
看板を上たり、額の形にて黒ぬり白文字にて本家兼有甚太郎と記せり」と、兼有の本家である
甚太郎家の店先について記している。 また、兼有太郎右衛門家は、甚太郎家近くに位置し、
『旧市史 第参巻』所収の材木町町並図には、同町南北の往還通りに甚太郎家とほぼ向かい
あって記されている。


 兼有のほか、城下の刀鍛冶では勝重・兼辰・大道・伊奈勘蔵などが知られ、作品を残している。
勝重は、名古屋関鍛冶町に住んだ勝重の二代目にあたる刀鍛冶で、のち岡崎に移住し、「三州
住藤原勝重」と銘を切った。元禄頃の作品が見られる(『刀剣美術』四○六)。 兼辰には脇差
「三州岡崎住兼辰」(『美術工芸17』六一三頁)、大道には脇差「三陽額田郡藤原大道」(豊田市
 野野山家蔵)の作品が伝わり、竜海院過去帳(国立公文書館内閣文庫蔵)にも兼辰と大道を
称する一族の名が見られ、同刀鍛冶と関係するものと思われるが詳しいことは不明である。
江戸末期の伊奈勘蔵(刀銘は神風真菅)は、『旧市史 第参巻』によると、菅生の刀鍛冶で、のち
両新町に移住したという。以上のほかに、作品は伝わらないが、『古今鍛冶備考』などの銘鑑
には岡崎の刀鍛冶として正重・一国の名前が見られる。正重は伊賀村に住んだとされ、また、
一国は元禄頃活躍し、本国は美濃とされる。


 次に、江戸後期岡崎藩本多家の刀鍛冶だった磯谷氏について紹介しよう。同氏は、吉正・
吉達・吉光と三代にわたり江戸で本多家に仕えた刀鍛冶である。 文化初年頃に編纂された
本多家分限帳(愛知県図書館蔵)には、本国を三河とし、初代磯谷重兵蔵吉正について「御切米
七石五斗三人扶持 御仲ノ間 御鍛冶」、二代目磯谷十助について「御切米二人扶持 御納戸
支配」と記されている。


 磯谷氏が本多家に仕官するようになった時期については、前記本多家分限帳が藩主本多
忠顕代としており、さらに推測するならば、寛政五年(一七九三)の本多家役人帳(『史料 
近世下8』一二)に記載がないこと、初代吉正には享和二年(一八○二)からの作品が見られる
ことから、同氏は寛政期後半から享和期にかけて藩刀鍛冶として採用されたものと思われる。
この時期は、岡崎藩の寛政期財政改革の成果により、ある程度の藩財政が立て直され、本多家
が家臣を新規に取立てることも可能になったのであろう。また、異国よりの外圧から国防意識が
高揚しつつあった当時の社会情勢なども本多家が刀鍛冶を必要とした要因と考えられる。 
なお、磯谷氏が刀鍛冶として活躍しだした一九世紀初頭は、刀剣史上では新々刀期に属する。
それは、享保以後衰退していた鍛刀界が江戸を中心に再び隆盛をみる時代である。
水心子正秀・大慶直胤・細川正義など、江戸では多くの刀鍛冶が出現した。磯谷氏もそのうちの
一人であり、前記刀鍛冶たちが諸藩の刀工として召し抱えられたように、同氏も本多家に取り立
てられたと思われる。


 初代吉正は初銘清吉で、七代目丹波守吉道門人と伝えられる。 「三州岡崎士吉正」、「竜城臣
磯谷重兵衛源吉正作之」、「竜城臣吉正」などと銘を切り、享和・文化年間の作品が見られる。
二代日吉達は、重助・達次とも称し、細川正義門人と伝えられる。「三州岡崎士磯谷重助源達次
作之」、「竜城臣磯谷吉達」などと銘を切り、弘化・嘉永・安政の各年間の作品が見られる。
彫物も巧みだったようで、刀身に竜・不動明王・三鈷杵を浮彫にした作品もある。三代目吉光は、
「竜城臣吉光」と銘を切り、文久年間の作品が見られる。なお、吉光は岡崎藩の剣術師範としても
安政年間から活躍したようで、藩主より「有枝」の号を授与されている。


 明治四年(一八七一)廃藩後、磯谷氏は吉光が妻の生家である武蔵国入間郡城村(現所沢市)
に移住し、武芸を教授したようである。明治二三年六〇歳で没し、その住居跡には門人により、
「有枝磯谷先生之碑」と題する石碑が建てられている。なお、この碑文を中心に磯谷吉光を紹介
した論文に、新市郎「城の刀工磯谷吉光」(『所沢市史研究』七)がある。