陸奥守大道の作風概観
美濃の刀剣というと『志津三郎兼氏』『和泉守兼定』『孫六兼元』の三工がことのほか著名であり
多くの研究足跡を見掛けるのに対し、新刀期以降の刀剣界に多大な影響を与えた末関諸工の
研究がややもすれば軽視されがちと感じているのは筆者だけであろうか。
本稿では高技量であり乍ら定まった作風が無いと云われている『大道』について、「陸奥守」
受領名の最古と思われる新資料を含む4本の典型作例(刀1、脇指2、短刀1)を取り上げ、
その作風の一端を紹介するとともに冒頭に記した新刀界への影響力に言及することとしたい。
まずは『大道』についての特記すべき経歴であるが、
@ 正親町天皇より「大」の一字を賜って『兼道』を『大道』と改名したこと
A 新刀の祖『堀川国広』との合作刀があり、然も指表に『大道』の銘が刻してあること
B 新刀期初頭の一大勢力「三品派」総帥『伊賀守金道』の父であると云われていること
以上の3点があげられる。
これらはいずれも衆知の通りで末関諸工中でも一頭抽んでた存在であったことは容易に想像
されるところであろう。
次には作風を概観し、大きく三つ分類して作例を紹介する。
(1) 末古刀「千子風」 図1
(2) 末関に多い「保昌風(写し)」 図2
(3) 次の世代に繋がる「末関−桃山風」 図3、図4
村正にも見紛う末古刀「千子風」
図1 短刀 銘 大道作
法量 刃長 28.0 糎
反り 0.2 糎
元幅 2.25糎
元重ね 0.58糎
平造、庵棟、身幅尋常、研ぎを経て今はふくら枯れすすどしく、頃合に反り付く。
彫りは表裏とも刀樋を掻き流す。
地鉄は板目肌流れ、裏は柾掛かり、地沸ついて肌立ち、太く光沢の鈍い地景が絡み、棟寄りに
白け映り立つ。
刃文は匂い口沈み加減。尖り互の目主調に『兼房』風の乱れ刃交じり、表裏揃い乍ら裏は連れ
互の目に湾れ交え、起伏激しく、所々荒沸凝って地に零れ、沸筋・砂流しよく入り刃淵ほつれ、
金筋・銀筋交じえ、焼き出し煙込み、腰元に僅かに棟焼きが有る。
帽子は湾れて先小丸、表の返りは固く止まり、裏の返りは掃き掛けてほつれ、喰違い刃風となる。
茎は生ぶ、棟角、先深い栗尻、鑢目極く浅い勝手下りとなる。 穴一。
銘は細鏨、目釘穴下棟寄りに大振り伸びやかな三字銘となる。
指表の刃取りは「千子派」のそれであり、指裏中程の連れ互の目と牙刃に同工の個性を垣間
見る。『大道』の作域の広さが伺われる好例である。受領銘「陸奥守」を冠していないのは天正
以前の作刀であろうか、後述加藤大道(図4)より銘振りに暢達さが感じられ地刃に末古刀の
趣が強い。
末関に多い「保昌」写し
図2 脇指 銘 陸奥守大道
法量 刃長 30.6 糎
反り 0.2 糎
元幅 2.7 糎
元重ね 0.58糎
平造、真棟、寸延びて身幅広く、浅く反り付く。
鍛えは板目、沸ついて肌立ち流れる。裏は殆ど柾となり、白け映り立つ。
刃文は匂い出来の細直刃。匂い口沈み、区際を焼き込み表裏揃った湾れごころがある。
帽子はたるみ加減。焼幅広く沸づいて先、焼の緩い焼詰めとなる。
茎は生ぶ。僅かに区送り、刃方を摺って今は舟形。刃方角に面取り棟角。茎先
栗尻、鑢目勝手下り。 穴二、内一鉛埋め。
銘は処々朽込み、底名のきらいがある点が惜しまれる。
いわゆる「保昌」写しと称される作風であるが、総体に沸づきが不足している点で本歌にやや
及ばないものを感じる。
受領名の最古と思われる新資料
図3 刀 銘 源陸奥守大道作
天正元年九月吉日
法量 刃長 73.9 糎
反り 1.5 糎
元幅 3.0 糎
元重ね 0.64糎
鎬重ね 0.7 糎
鎬造、庵棟、反りやや浅く、元先の幅差少なく、中切先大きく伸びる。
地鉄は小板目肌、流れごころによく詰んで精良、裏区際から白け映りが鮮明に立つ。前述短刀
大道(図1)に比して、鍛えも洗練されてきている。
刃文は匂い口締り加減の浅い湾れを基調に互の目、尖り刃を交え、処々大きくもたげて変化を
見せ、刃淵に小沸ついて一部地に零れる。
帽子は浅く湾れて尖りごころにやや長く返る。
茎は生ぶ、棟・刃方ともに角、先浅い栗尻、鑢目浅い勝手下り、棟鑢同様。
短刀大道に比して、茎先栗尻の張り様が変化してきている。
銘は短刀大道より太鏨に変化して力強さがある。
永禄十二年に『大道』へ改名「陸奥守」を受領したというが、受領名を冠した最古の年紀作と
思われ新資料の発見ではなかろうか。
『加藤清正』所持と伝える同工の白眉
図4 脇指 銘 濃шヨ住大道作
天正拾八年五月日
法量 刃長 44.6 糎
反り 0.75糎
元幅 3.28糎
元重ね 0.6 糎
平造、身幅広く、中幅狭く高い三つ棟、先反りつく。
彫りは表、髭題目陰刻、裏、逆向きの草の倶利伽羅龍。
地鉄は杢目、棟寄り流れ、細やかに地沸つく。
刃文は区際を深く焼き込み、匂い口締り沈む浅い湾れに間遠な互の目を交え、上半焼き
幅広がり、互の目足頻りに入り、飛び焼かかる。
帽子は焼き深く、互の目連ねて返りを長く焼く。
茎は生ぶ、舟形に浅く反り、先浅い栗尻、棟・刃方ともに角、鑢目勝手下り。 穴二。
本作には朱塗印籠刻鞘拵が付いており、天正十九年春、賎ヶ岳の旧功を賞して『加藤清正』に
下賜されたものと伝わる。 同工作の白眉であり乍ら敢えて受領名を冠せず住人銘としている
点に伝承の信憑性が伺われる。
また、同工には天正十年紀の岐阜住銘十文字鎗があると云うが、それより下ったこの時期に
未だ関住人とあることは注目される事であり、本貫の地が関であることを意味しているのか
岐阜住人銘は駐鎚程度のものであったのか今後の研究が待たれるところである。
さらに、本作には同年月紀ほぼ同寸の陰打ちと思われる脇指(得能一男著「日本刀図鑑(光芸
出版)」所載)が存在しており、本歌との違いに「пvを「州」とする刻銘のほか、本歌が『清正』の
宗旨日蓮宗に応じて髭題目を刻しているのに対し、此の陰打ちは表の彫が「道」、裏が「南無」の
文字陰彫となっており、年紀横には「主口中」なる聞き慣れない苗字(姓と名、或いは官職の合字
であっても)の所持者名が切付けてある。
この彫にみる一見中途半端な仕事振りは「南無」に続くものが題目「妙法蓮華経」であってもその
仇敵関係であった念仏「阿弥陀仏」であっても、「主(あるじ)の口(くち)の中でどのようにも、
つまり唱える者の宗旨次第」という同工自身の機知に富んだ宗教観であり、しかして『大道』自身
は法華門徒では無く、権威有る方面からの注文によりやむなく手掛けたのではないのかとあらぬ
想像を逞しゅうしている。
そうしてみると本来の髭題目に見る闊達さというか、デフォルメされた文字の躍動感にやや
物足りなさが感じられてくるのは思い過ごしであろうか。
以上、『大道』の作風を概観したが、末関然とした初期の作風から次の時代を先取りした作域へと
大きく移行する魁精神は、巨匠『堀川国広』ですら同工との合作を手掛けた後に、それまでの
「天正打ち」とは全く別の境地である「堀川打ち」へと転換を見せており、『大道』にはその知名度
とは比較にならない程の影響力・後進育成力があったものと愚考する次第です。
『大道』が生きた時代と21世紀を迎えようとしている現在に「変化」というキィワードで共通する
ものが感ぜられる。これが高技量であり乍ら定まった作風を持たないと云われている所以であり、
変化の時代を生き抜くため必要な要件であると考えたい。
尚、本稿を纏めるに際して、西田重雄氏、山田耕市氏、前田康氏ならびに近藤邦治氏の各氏に
御協力と御指導を賜りました。