論文「『和泉守兼定と藤原利隆』補遺」


○藤原寛近について

 「刀剣美術」六月号に小生が「閑伝中興の祖和泉守兼定と藤原利隆に
ついて」を書きましたところ、各地からいろいろとご質問やお教えをいただき、
有難いやら苦しいやら、反響の大きさにとまどっている毎日です。

 そのうち、高知市の某氏所有の左記脇指に関して、藤原寛近なる人物に
ついてのお問合せに接しました。

 脇指 銘 (表)藤原寛近作
        (裏)和泉守兼定同作

     長さ一尺五寸一分強 反り三分余

 本刀は光山押形にある脇指と同一物と考えられ、他にも日本刀大鑑に
織田寛近と銘した合作刀が存在します。

 現在の刀工辞典によれば、いずれも寛近の項には「三代疋定の前銘と
いうも別人か」ぐらいにしか記載されておりません。しかし、福永酔剣先生は、
すでに昭和三十一年発行の「刀剣と歴史」に、関鍛冶の研究と題して、
「この寛近は三代疋定の初銘(鍛冶備考早見出)といわれているが、
これらの合作刀から見てそれは承認しがたい。織田姓を名のっているところ
からみると、信長同族かもしれない」と卓見を述べておられます。

 ところが私は先に発表の藤原利隆を研究中に、藤原寛近についても新発見を
しましたので、藤原利隆の追記として述べてみたいと患います。


○藤原寛近・織田寛近は同一人也

 まず、織田家についての概略を申し述べます。織田系図によると、信長の
先祖は平家の落胤のようにつたえ、また信長も平姓(たいらせい)を名乗って
いる。しかし、それは信長が天下統一をめざすようになってからのことで、
当時は源平二氏が交替で天下をおさめるという思想があったのである。
それ以前、織田家は代々藤原の姓を名乗り、信長自身も天文十八年(一五四九)
の文書では、藤原信長といっている。

 織田氏はもと越前国丹生郡織田荘の荘官の出身らしく、後年織田家の重臣
柴田勝家がその地を征服したとき、織田剣神社にあてた書状に「殿様氏神」と
いう表現をもちいている。

 越前の国人であった織田氏は、守護斯波氏の被官となり、応永七年ごろ
斯波義重が尾張守護を兼ねると、やがてその守護代に任命された。織田常松
(じょうしょう)がその人である。彼は常に京にいて斯波氏を補佐し、尾張には
「又代(まただい)」として織田常竹(じょうちく)をおくり、実務にあたらせている。

守護所は国衝(こくが)に近い下津(おりつ、稲沢市)にあった。その後、応仁の乱を
契機に何処も同じ戦国時代の常として同族間の争いが始まり、織由敏定と織田
敏広は尾張を二分し互いに守護代の職を取り合ったが、守護斯波氏のもとで
両者は他の織田一族と共に尾張の国で繁栄を続けた。

 織田信秀(信長の父)は織田一族で小豪族であったが津島地方という商業の
中心地をひかえた勝幡(佐織町)に城をかまえ、地の利を得て、文明十四年頃には
尾張織田一族中で頭角を現わした。天文十六年には連合軍を組織し、美濃の
稲葉城攻めをして失敗している。

 なお、この稲葉城攻めの三年前、即ち天文十三年、小競合いながら濃州に
攻め入り、立政寺(りゅうしょうじ)に禁制をかかげた織田与十郎寛近(としちか、
ヒロチカではない)は岩倉の敏広の弟広近の子で、六角征伐にも参加し、上郡の
小口に居城をもつ岩倉の武将である。

 次に、兼定との関係を年代を追って考察するとき、現在一般に認められている
兼定天文五年卒説を正しいとすれば、天文十三年には藤原寛近が生存していた
確証(禁札)がある限り某氏所有の合作刀は、寛近としては若年または壮年期に
注文し、晩年の兼定に作刀を依頼したものと推測される。

 寛近は織田一族の武将であって決して刀匠ではなく、藤原利隆同様、大名の
余芸か領民の志気の鼓舞のために自己銘を入れさせたにすぎないと私は考える。

 参考文献
  美濃明細記 岐阜市史 愛知県の歴史

 書考資料
  立政寺(現岐阜市西荘にあり)
  織田与十郎寛近禁制(写)
   当手之人数乱妨狼藉井陣執之儀堅令停止
   若背此旨族在之者可加成敗者也 而執達如件
  「天文拾三」織田与十郎寛近 花押
   立政寺
    参侍者御中

  (寛近についての附箋あり)
  尾州武衛義寛公ノ家臣兵庫頭広近ノ男天文十三織
  田上総介(信長)井口(岐阜)攻ノ時大将
       (岐阜市史資料編古代中世二八五頁)


○久能山東照宮神宝の三池について

 「刀剣と歴史」復刊第十二号に、「日本美術刀剣名物誌(十二)」と題して
故近藤鶴堂先生が「久能山東照宮の三池」の項に述べられた論文を要約すると、
この剣は久能山東照宮の御神体で、二代将軍秀忠により奉納せられ、国家鎮護の
霊剣として崇められている。筑後三池典太の作と伝え、家康無二の愛刀であった。

 銘文には、佩表大きく鏨太く「妙純伝持」とあり、その左側樋の中に片仮名で
「ソハヤノツルキ」とあり、裏に「ウツスナリ」とある。

 長さ二尺二寸三分九厘、反り八分五厘

 「ソハヤの剣」は坂上田村麻呂将軍の剣であり、それを模造し「妙純」が所持した
という説をなす者があり、また銘文についてもいろいろ論議があるので、なお研究
すべき事柄であろうと思う。一説にこの三池は箱根竹の下御宿某が家に伝わる
重代刀なりしを徳川家康に献じたものと言い、また甲州武田家に伝わりしともいう。
妙純は信玄より数代前の者の法名と言っているが確説はわからない、と解説されて
います。

 つづいて同誌八頁には福永酔剣先生が、兼定でただ一振り重要美術品に指定
された刀「武田左京大夫信■所持」と切った二字銘之定がある。■は銅鑼という字
なので、昔は寅または虎の代用として使われている。

したがってこの刀は武田借玄の父信虎の愛刀だったことになる。之定は秘談抄系図に
よれば「根本甲州の者也」という。甲州出身で、のち初代兼定の養子になった、という
意味であろう。すると信虎が之定の傑作を愛用した裏面には、同郷の誼(よしみ)という
人間的な感情が潜んでいたと云える、と述べられています。

 さて、私はこの両税を拝読し、先に発表しました「兼定と利隆」の論文中の、藤原利隆の
父で第五代美濃国守護代斎藤利国を思い出しました。彼の妻は有名な関白一条兼良の
娘細姫であり、明応五年近江の国六角氏攻めの折、馬借集団の包囲にあい自害した
人物です。

斎藤利国 斎藤新四郎号持是院権大僧都法印公性妙純
       明応五年八月三日卒武儀郡谷口邑分陽寺裏
                                居之
                          (美濃明細記)

とあり、利国の父斎藤妙椿は生前より法名(妙椿)を名乗っていた前例があるので、
利国が生前斎藤妙純と名乗っても一向にかまわない時代であふたと考えられます。

 また、前述の通り、斎藤衆の抱え鍛冶同然の兼定が甲州出身であったということは
きわめて重要であるが、それと共に当時の美濃国の状況を考える時、いかに政治経済が
安定した強国であったとはいえ、都へ上る要所であり、北は朝倉、西は六角、南は織田、
今川と、屈指の強力な戦国大名がすきあらばと虎視眈眈とねらっていたはずである。
特に東方では信濃国の一部をも勢力下において美濃国と境を接する甲斐国武田家の
存在は、美濃国にとってひときわ大きく、常に心を配っていたのもまた当然のことである。

 このような両国の関係を考えるとき、美濃国第五代守護代斉藤利国(妙純)が甲州
武田信虎に自己所有の「ソハヤノ剣」を贈呈し、以後甲州武田家に伝来したとしても
決して不思議ではないはずです。時代的にも明応・大永年間の人であれば両者は
全く一致します。

 「ソハヤノ剣」の作者は、はたして三池典太なのでしょぅか。案外、有職故実の大家、
関白一条兼良に剣の原型を学ぶことのできた之定ではないかとうがった推測も成立
しますが、何分にも重文の御神宝を冒漬するようで、崇りがこわく、確証のないことを
軽々とは申せません。しかし、剣銘「妙純伝持」の妙純は斎藤と利国なり決定すべき
ではないでしょうか。



補遺その二

〇久能山東照宮神宝三池についての疑問(追記)

 (1)御神宝は無銘であるが、作者は三池典太光世であると言い伝えられている。

 (2)刀匠三池典太光世より約二百年前、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の
    佩刀を原形とした模作であるが、その原形を作者がどうして知ったかが最初の
    なぞである。

 (3)次に重要なのは「ソハヤノツルキウツスナリ」の片仮名について研究する必要が
    ある。片仮名の始まりは平安時代の初期の頃より漢文訓点に使って様々の字体が
    あったが、院政時代に現行に近いものに整ったと「広辞苑」にある。院政時代とは
    平安時代約四百年間のうち、後期百年余りを指すのであつて、問題の刀匠の
    製作年代は承保の頃となっている。これは白河上皇が院政を始める応徳三年
    (一〇八六)より約十三年前であり、片仮名としてはまだ未完成期である。

   都より遠く離れた九州の地で片仮名未完成期に完璧な片仮名で樋内に彫ることの
   出来る刀匠といえば、余程の学者か或いは教授することの出来る人物が他に
   いなければ出来る技ではない。

   「日本刀銘鑑」には、次のようにある。
   
   「三池伝多光世」「光世」「光世作」「藤原光世」三池。建武のころ。筑後。(光山・
   類字・校正・総覧)
   
   (注)建武ころとあるが、その年代を決めることはむずかしい。久能山の刀(重文)は、
      前田家の大伝太に比べるとかなり年代は下るようである。(薫山)

 (4)中心佩表に「妙純伝持」とあり、妙純とは美濃国第五代守護代斎藤利国(妙純)に
    相違ない。彼の父斎藤妙椿は生前より殆ど法名を名乗り、子供である斎藤利隆は
    永正十六年、華厳寺に持是院妙全として法名で書状を出した実例がある。

 さて次に、「伝持」をいかに解釈すべきかであるが、これは後世度々我々がお目にかかる
「○○家重代」と同意語で、子々孫々まで伝え持ての意と解するのが妥当ではなかろうか。
斎藤家に昔から伝わった刀にわざわざ妙純が今更「伝持」と銘する必要はまずないと考え
られる。こうなると、神宝「ソハヤノ剣」は斎藤利国(妙純)と同じ時代に、彼の注文により
制作されたことになり、すなわち明応時代の作ということになってしまう。

 (5)さて、明応頃の斎藤家と関係のある美濃の名匠といえば、必然的に和泉守兼定となり、
    しかも此の時代は彼の青年期に相当する。

 (6)「ソハヤノ剣」を私は直接拝見していないが、故近藤鶴堂先生のお言葉を拝借すれば、
    肌小板目つまり、柾心交じる。すこし白け心あり、刃文中直ぐ仕立にて匂い締り心に
    なり、小沸つき、二重刃風になりホツレた所もある。これでは大和美濃伝丸出しである。

 (7)ここで、どうしても登場してもらいたい人物として一条関白兼良がある。彼は美濃の国へは
    文明五年に行っており、文明十一年には七十八蔵の老骨に鞭うって一乗谷朝倉孝景を
    たずね、色々の学問を伝授すると共に財政的援助を受けている。恐らく九十歳の長寿を
    保ったと思われる。

     彼は当代に於ける第一等の文学者で、中央の公家武家は勿論、周防の大内政弘まで
    学問の伝授を受けている。彼の学問については多くの著書をみるが、有職故実について
    厖大な知識と、古典の解釈が最もすぐれていたという。之定二十歳前後のときと一条兼良
    の晩年が時代的に一致することにより、「ソハヤの剣」が坂上田村麻呂の佩刀であり国家
    鎮護の名剣であることを知り、その原形を学ぶことが出来たのは、和泉守兼定であったと
    推理するのも、あながち無理な推論とは私には決して思えない。


 すべての学問は真実の追求に在りと考え、あえて私見を述べたしだいです。同好の士の御意見
を切望します。(昭和六十一年七月二十日)
                                       (しのだこうじ・岐阜県支部顧問)