論文『池村家文書から見た「兼常」の考証』
五ケ伝の一つである関鍛冶は、多くの刀剣を後世に残した割には、刀匠の製作
年代、及び系統等に不明確な点が多く見受けられます。その解明には日刀保職員の
鈴木卓夫先生を始め、諸先生方が鋭意御研究されております現状ですが、道なお
遠し、の感はまぬがれません。
その理由を考えますと、まずその第一は、関鍛冶の始祖である元重という刀匠は、
時代応長(一三一一年)頃に九州から関に移住したことになっております。しかし、
彼の正真とされる遺作刀は現存しておらず、力量、系統については全く知る由もなく、
幻の刀匠とさえ言われております。
次に、関鍛冶は昔から実戦本意のためか比較的刀剣に裏年号が少ないことと、
関市下有知にある禅宗の古刹龍泰寺は、古くから多くの刀匠が帰依していましたが、
嘉吉元年(一四四一年)から天保元年(一八三〇年)までに四度の火災転あい、多数
の古文書を失ったこと等に起因すると思われます。
このたび岐阜県関市富士塚地区の旧家から偶然に、寛文二年記述の「池村氏由緒
書」が発見されました。その中の兼常に関係のある一項は、非常に興味があり貴重な
資料と思われますので、私見を加えることをお許しいただき、ここに紹介します(全文は
別掲写書参照)。この文書の前段は、刀剣学上あまり必要ではないので省略し、後段の
兼常に関する部分のみの解説とします。
<解 説>
岐阜県関市下有知字富士塚に、富士浅間大権現が御鎮座されました始めを申し
上げます。人王九十五代後醍醐天皇の御時、即ち元応年中(元年は一三一九年)、
関鍛冶の元祖である太郎右衛門元重という刀匠がいました。
その子孫の奈良太郎兼常は、後円融天皇の永徳年中(元年は一三八一年)に富士
浅間大権現に参詣して、名剣が出来ますように祈願した折、富士の土砂を持ち帰って、
故郷の下有知富士塚に大権現を勧請しました。
そして、兼常家代々がこの神社の支配を司って来ましたが、天正年中(元年は一五
七三年)、兼常家に代わり刀匠の兼白がこのことを受け継いでいました。
その後、兼白もまたこの地を去って行く時、かねがね関鍛冶と親交が深かった池村家
に、神社の神事祭礼の一切を委任する取り極めをしました。
(以上)
次にこの文書を読んでの私考を述べます。
(1)地村家は楠木正成の系統をひき、南朝方の出身で関市下有知に住み、関鍛冶の
良き「スポンサー」であったことがわかります。
(2)この文書の内容に基づくとすれば、兼常は大和から関に移住した刀匠ではなく、
関鍛冶の元祖と伝えられる元重の直系の子孫ということになります。
(3)多くの刀剣書に書かれている兼常初代は、応永二年(一三九五年)になっています。
恐らく残存している兼常刀の裏年号を根拠にして決定されたものと考えられますが、
年代的には無理のない見方ではあります。しかしこの文書によると、初代兼常は
応永二年から十四年も前の永徳年中に、立派に刀匠として活躍していたことになり、
もしそうだとすれば、貴重な発見と思われます。
(4)刀工総覧等には、下有知住兼常(文明頃)を別人として扱っていますが、単に兼常が
刀剣に居住地銘を入れただけのことで、もともとこの一派は下有知に住んでいたので、
文明頃の下有知住兼常は、本家の二代と見るのが正しいと思います。
(5)天正頃(元年は一五七三年)、兼常は尾張の福島正則の抱え鍛冶となって、その一字を
頂き政常と改銘しましたが、この時、後事を兼白にまかせて、故郷の下有知を去った
ことが明瞭となりました。初代応永兼常より天正兼常までは約一八九年間続いたこと
になり、刀匠一代を三十年間とする刀剣学の歴史上の一つの見方からすると、五代、
または六代続いたことになります。
(6)次に兼白も関鍛冶と深い縁のあった池村氏に、神社の一切の事を依託して去って行き
ましたが、これも太平の世を迎えて、需要と供給のバランスの変化にはどうしようもなく、
止むを得なかったと思われます。
(7)ついでながら現在の関市下有知富士塚という地名は、富士より勧請した神社が高い
大きな塚の上に鎮座しているので、富士塚という地名となったものと考えられます。
考証の終わりに当たり、一巻の文書の発見により、郷土の刀匠の足跡がほんの少しでも
垣間見えて感慨無量であります。兼常の居住地が関市下有知字富士塚と判明したことに
より、郷土史に新たな一頁を加えることが出来たことを、何よりの喜びとするところです。
少しでも同好の諸氏の御参考になれば幸甚です。
しのだこうじ・岐阜県支部顧問)