論文『蒲生助長刀と附(つけたり)書状に見る
    本阿弥家の確執について』


叙文


平成十八年の初夏、拙家に一刀を携えた温和な人士の訪ないが
あった。氏は函館在住の木村健一郎氏と云われ、持参された刀は
氏の曽祖父木村三作源之成が戊辰戦争に従軍した褒美として
他の品々と共に主家である今枝氏(加賀前田家の重臣一万四千石)
から頂いたものであり、茎には江州蒲生(がもう)住助長の刻銘が
あった。

遠方の木村氏が遙々と岐阜まで尋ねてこられた理由は、刀剣に
対する造詣を深められつつある中で拝領品を通じて先祖の遺徳を
偲びたいとお考えになり、その階梯として蒲生助長と云う刀工の
解明を思い立たれたのであるが、この工に関する情報・資料は未だ
伝承の域を出ておらず、偶々刀剣美術570号誌上に上梓された
拙稿「薬王寺派刀工について」中で蒲生助長のことを触れている点
に注目され、矢も楯もたまらずと連絡を頂いた次第であった。

然しながら氏の直向な質疑を前に、判明している研究成果は至って
淋しく、鍛刀地と伝わる滋賀県東近江市の石塔寺へも足を運んで
みたが応対頂いた寺僧の話からは周知の事実を超えるほどの知見
は得られなかった。

そこで近江鍛冶研究の泰斗にして『江州刀工の研究』の著者
岡田孝夫先生に御教示を仰いで見たところ、嘗ては蒲生助長銘の
鑓を所蔵なされていたと云い、蒐集された資料ほか卓越した御見識
の一端を示しては頂いたが、御専門は湖北鍛冶とのことで湖南鍛冶
に属する蒲生一派は研究対象外の御様子であった。

このように刀工助長に関しては未だ調査の途上に立ち竦んでいるが、
同刀には付随した書状が四通もあり、一瞥したところ非常に興味深い
内容であると感じたためこれを拝借し熟読した結果、助長刀の評価を
通じて本阿弥家中に確執があったと思われる様子を窺い知るに
至った。


助長について

本まず始めに殆どの方が馴染みないであろう助長及び蒲生鍛冶に
ついての紹介と、刀剣書に見る記述ほか、これまで知り得たところ
などを一通り取り上げておきたい。
なお同刀には拝領時から黒田助長の号があり刀工「蒲生助長」と
区別するためにも以後「黒田助長」と称していく。

黒田助長【資料.一】の所見 銘 江州蒲生住助長
  法量 刃長:59.7p 反り:2.05p 元幅(棟筋含む):3.09p
      元重ね:0.63p 鎬重ね:0.73p 先幅:2.0p 
      先重ね:0.36p 先鎬重ね:0.45p 鋒長:3.05p
      茎長:13.0p

鎬造り、中鋒、低い庵棟、鎬高く、元先の幅差やや開き、優美に深く
反る片手打ちの打刀。茎生ぶ、元来は反りつくも後世これを伏せる。
鑢目表は切、裏は僅かに勝手下り、先刃上り栗尻。棟微かに肉、
刃方丸みつく。鍛えは小板目精良につみ、鎬地は柾となり、区際から
白けが立ち上がる。

刃文は匂い口沈み加減のよく締まった小互の目に丁子・尖り刃を交え、
小足・葉よく入り、金筋と地景が絡み、総体にこずむ。
帽子表は緩やかに湾れこみ、先小丸。裏は沸づいて掃き掛け、
先小丸風。表裏とも返りはやや深い。

特に傑出した作域にはないが地刃とも大きな欠点は見受けられず
健全であり、概ね永正・大永前後の作に思われる。

銘はほぼ鎬地内に納まって、やや拙く、「蒲」のサンズイ偏に「江」とは
異なる鏨運びと右旁の「甫」に中央縦画を長く伸ばす個性が見受け
られるが【参考.一】、こうした我流の私体文字は美濃刀に多く見掛ける
ところであり、縦画を極端に伸ばす刻銘もまた寿命、正利、兼縄などの
美濃系鍛冶に共通する手癖と云えよう。

これらは寿命(としなが)の縦長銘を巷間「命を延ばす」と云うように、
概ね長いもの・永くありたいものを形容表記しているが【参考.二】、
水辺に群生する蒲(がま)も茎や穂が長い植物であり、こうした書体に
類するものではないだろうか。


次に古籍における蒲生助長の記述を抄出すると、近世初頭までの
刀剣書には収録された様子が無く、江戸後期寛政四年刊の『古刀銘盡
大全』に高木貞宗の弟子である高弘の子で貞和頃、江州蒲生住‐‐ト打、
後明應頃同メイアリとし、子の助久、助次、孫の助吉、彦の村吉と縁戚
不明の助光を蒲生鍛冶に挙げている。

次いで寛政八年刊の『本朝鍛冶考』には高木貞宗の門人を甘露俊長
とし、その直下に助長を後小松御宇永徳俊長門人或備前國住人當国
蒲生郡石堂寺住として族間の順序に多少の相違があるが助次以下
一門の名は『古刀銘盡大全』と同様に記してある。

さらに『古今鍛冶備考』(文政三年刊)では○江州‐‐と打本国備前
福岡一文字一派助宗末流といふ貞治應安の比○江州蒲生住‐‐作と
打本国備前長船尓て一文字助宗末流の家絶る尓よつて此國へ来流
蒲生郡石塔寺の門前尓住す故尓石塔を氏尓奈し多り此末ハ石堂
石道とも称す是諸国石堂の祖也明應比とあり、『校正古今鍛冶銘
早見出』(嘉永二年刊)においては○近江蒲生住応永○江州蒲生住
‐‐作明応八一本本国備前是ヲ石塔ノ祖トス末ハ石堂トモ石道トモ
打ト云とある。

これらの変遷を要約すると当初は高木貞宗の門流とだけであった
のが、研究の進む?につれて或備前国住人を加え、のちには高木
門が無視されて一文字助宗末流を出自とする石堂鍛冶の祖に祀り
上げられて行き、これが現在の通説になっている。

然し『日本刀大鑑 古刀篇三』では『光山押形』記載の明応八年紀作
(1500年)を例に挙げ「この年代の同銘の作をままみるが、いずれも
当時の美濃物に類似している」とあり、黒田助長及び「薬王寺派刀工に
ついて」の稿中で紹介した助長短刀を見る限りでも一文字流の秘伝を
伝えて他鍛冶の憧憬であったと云われる名残や備前気質は末古刀と
云う時代相を考慮した上でもなお指摘できるものはなく、刀剣美術
352号の「江戸の石堂鍛冶(小笠原信夫氏・飯田俊久氏共著)」や
岡田孝夫氏の『近江刀工伝』において備前出自説に懐疑的な立場を
とられているのは然るべき洞察であろう。

また助宗・蒲生一派間の通字となる「助」については、蒲生の南西隣
とも云える南都において、大和五派から遅れた元興寺鍛冶と仮称
される未詳の一群にも使われており、『掌中古刀銘鑑』『刀剣銘字大鑑』
他に助行、助平、助信、助延を始め、助光、助久、助次、助吉などの
蒲生鍛冶とも重なる名前が鎌倉末期から室町中後期にかけて見受け
られる。

しかし直線距離にして僅か60qの近傍地で、しかも活動時期が近接
する中において、村吉を除く一派全ての同名鍛冶を見ることは如何にも
不自然であり、現存確実作を見ない蒲生助久、助次、助吉等は銘鑑上
に重複記載があるか、両派を行き来し、同化したかに想察される。

また助光には備前刀に紛れる作例があると『日本の美術 bP37
刀剣大和と美濃』(小笠原信夫氏編)の中で紹介されているが、研究
途上の近世以前にこうした作を蒲生鍛冶のものと誤認し、伝承の証左
として満足するところはなかっただろうか。

さらに一転して北東へ目を向ければ隣国美濃に西郡鍛冶【資料.二】が
あり、同派の末にも助宗を名乗る刀工のあることが知られている。

この西郡鍛冶の開祖、外藤は『美濃刀大鑑』(刀剣研究連合会発行)の
研究篇によると安田文庫旧蔵の『長享銘盡』に「外藤 醍醐天王 
号延喜御門御宇函承相様 近江國テ鍛仕給フ 云々」とあり、大和を
源流とした菅原道真率いる近江の官工鍛冶集団であったとの考察が
述べられている。

また外藤の子とされる長基は『校正古刀銘鑑』(菅原長根)では近江国
鍛冶に分類され、本阿弥光和が延宝四年に著した『返誓紙』(刀博
資料室)には「美濃国 長基 永久頃 蒲生」とあり、美濃には語源を
同じくする加茂(賀茂)郡はあっても蒲生という字邑名は見当たらない
のでやはり本貫地、近江・蒲生の意味と思しく、それより後は『古今銘盡
 系図秘談抄一』(慶長十六年)の美濃國西郡系図に 

外藤―長基―女子―寿命―寿命―寿命―宗吉―宗次 
鈩横中子の姿備前に似たり―助宗 宗次子鈩横―宗吉 
宗次子鈩横 の名を連ねている。

同様な系譜は『古刀銘盡大全』や『本朝鍛冶考』からも読み取れるが、
これらの信憑性については流派の都合による編纂物と慎重視する
諸賢の意見を傾聴し、参考までに留めるべきかとは思う。

しかし外に信頼すべき資料の存在を知らないので一応『古今銘盡』を
否定せずに過ごしていくと、系図の末座に記されている宗吉は宗次の
子とあり、同じく宗次の子とある先代の助宗とは兄弟の間柄になる。

これを素直に見るならば助宗は後嗣に恵まれないまま他界したか
総領の地位を禅譲したことになるが、不可解なのはこの助宗が宗次
の上字を自分の名の下字としていることである。

中世以降の社会には上位者の名の下字を己の名の上字に頂くと云う
作法があり、これを「偏諱(へんき)をうける」と云うが、助宗の名乗りは
偏諱の規矩準縄が定まっていなかった頃の光忠、長光、真長らに見る
通字様式とは異なって一代限りのものであり、こうした慣習に照らし
釈然としない。

従って系図の上では宗次の子とあるものの、その実高貴な血筋か
相当に身分の高い門人であることが考えられ、現存作も殆ど無く、
一時的に同派を統率しただけで、後に離脱し系図の筋目を正した
のではないだろうか。

そしてこの西郡鍛冶の後代が足利義尚から長享二年四月(1488年)
六角討伐に召集された美濃国守護土岐政房に従って近江へ出向いて
おり、未だ径眼する機会を得てはいないが『日本刀大鑑』並びに『刀剣
銘字大鑑』他の記述に寿命の江州青野ヶ原御陣打が現存する旨の
紹介をみる。

因みにこの長享二年こそは足利将軍の召命によって備前から勝光、
宗光率いる長船鍛冶六十名ほどが江州鈎(まがり)村へ呼び寄せ
られたと『蔭凉軒日録』に記述されている刀剣史上特筆的史実の年で
あり、その内の一人が軍を退いた後も土着し蒲生鍛冶の祖になった
として一文字助宗鼻祖説の裏付に挙げる刀剣書が多い。

しかし撤退の主因は将軍義尚の陣没にあり、近江側からすれば敵勢に
与する長船傍流鍛冶が六角氏の居城、佐々木城と指呼間距離にある
石塔寺において易々と活動拠点を開けるだけの威光や事情を有して
いたとするには些か無理があるような気がしてならない。

それに対して美濃勢と近江とは土岐家から三人もの子が六角家に猶子
として迎えられていたほど密接な関係にあり、その動向も『後法興院記』
(関白近衛政家)長享元年八月一日条に「江州不去渡寺社本所領間、
可被退治土岐云々、大樹可有御出陣云々」の記述ほか、『大乗院寺社
雑事記』(奈良興福寺尋尊大僧正)長享元年八月十一日条には「六角方
迷惑仰天無是非、土岐・朝倉各迷惑也」とあるように土岐も六角の同類
と見做されていたと云う。

このような情勢下に政房の父、成頼は赦されず、代わって守護正員に
就いた政房が緊張感高まる幕府側との関係に赦免を被ると云う形で
参陣したのが実態であり(『美濃・土岐一族』谷口研語氏著より引用
簡約)、後年の複雑化する関係迄には未だ至っていないこの時点に
おいて親類同様の六角に対しどれほどの戦意があったのかは
疑わしい。

こうした六角氏の親派的立場にいたと思われる鍛冶の一人に、志賀関と
称される兼延があり、『校正古刀銘鑑』には本国美濃のほかに近江国
(偶然ではあるが滋賀は古名で志賀とも表記した)の部にもその名が
見られる。

これに就いて『美濃刀大鑑』では明応頃に佐々木城下で打つとあり、
同じく『日本刀銘鑑第三版』(石井昌國氏編)には蒲生郡佐々木城下住、
本国美濃、明応頃とし、「美濃守護代斉藤妙椿と近江守護六角高頼との
同盟による美濃鍛冶の移動か」との注釈を見る。

このような事実があるならば、同様にして土岐軍に率いられた寿命、
これを『日本刀銘鑑第三版』では助宗同人としているが、同工が近江
官工の令名復興、或いは盟友関係の誼で石塔寺に駐鎚し、幕府側の
目を憚って系譜から分流・離脱したとの仮定を試みると、当時の
美濃物に類似すると云われる作風や、「蒲」に見る寿命流の縦長刻銘
とは接点を見出すことが出来る。

また西郡系図の宗次に「茎の姿備前に似たり」と云う備考を見るが、
これらの要因に加えて貴種の後身と推量される出自が重なり、後に
これを一文字助宗の裔とする誤解や付会されるに至ったとも考え
られるが、残念ながら現時点では状況証拠に留まるばかりで、定かな
根拠は示しえない。


附書状について

本阿弥家が発給した鑑定書面には折紙のほかに、添状と下げ札が
あり、その内の添状については『随筆東鑑』(刀博資料室)に「添状の
事古来なし。…中略…本阿弥家同名の者共渡世之為に用之。
…中略…尤本家より添状付ル事なし云々」とあって折紙発行権の
無い本阿弥分家が副業的に元禄頃から出していたものと云う。

またその書式は一貫しておらず、一般的には二つ折り奉書に
代付けを記し、寸尺等の裏書きがあるものを添状と称しているが、
初期のものは単なる鑑定所見を記した手簡、即ち手紙と明確に
線引きできる様相にはないので、本稿でも黒田助長の附けたり
としてあるこれらの書状を広義的に添状と捉えるとともに、解読
した結果を資料三から六に順序付けてみた。

その理由としては資料三資料四は黒田又右衛門宛となっており、
木村氏が主君今枝氏より拝領している以上、黒田氏のそれは
前所持者に他ならず、今枝民部宛の資料五と宛名不明の資料六
それ以降の発行となる。

さらに資料三では「三・四十両程の売買これ仕る」という実勢
価格での概算査定であるのに対し、資料四は金三枚五両という
非実用貨幣の大判金を交えた代付けで提示するとともに、
実際の商取引には「高直(こうじき)にも売買仕るべく」とさらに
高額となる旨を仄めかしており、茲に前後の並びを臆断したが、
同様にして代付け高の多寡を基に資料五と六を順序付け、以下に
各添状の発信人及び受信人の素姓と文面の大意、並びに本稿の
主題とした本阿弥家の確執を解読していく。


資料.三】〈序〉 発信人、光傳は本阿弥分家、光二系の人
であり偉大な文化人光悦より四代目に当たる。この家は鼻祖光二
の代から前田家の扶持を頂いており、光傳は万治三年、法橋に
叙せられるなど宗家を圧倒する観があった人物と云われ、能筆に
過ぎる筆跡からも磊落な印象を受ける。

因みに弟の光山は養子先である宗家の跡目相続権を光常に譲って
退いたため、これの代償として彼の別家設立を本家が計らい、
さらには前田候お抱えの地位も兄を差し置いて継承させた経緯が
あり、以後、光山系が加賀本阿弥と称されている。

受信人、黒又右衛門の黒は片苗字といって黒田の省略であり、
福永酔剣先生の御調査によれば禄高二百石の加賀藩士であった。

前田家の御神宝、大典太についての質疑を受けて、光山から
黒田又右衛門とその朋輩宛の連名に発信された書状が残って
おり(故、村上孝介氏蔵)、当然ながら刀剣御用に携わる役目筋と
思われるが、加賀藩士の名簿録『先祖由緒并一類附帳』には
その名が見当たらず、詳らかなことは解明に至ってない。

文面は追而書(おってがき)と云う追伸文が先にあり、黒田が光傳の
元へ立ち寄った際に不在であった侘びの後、助長は正真であるので
三、四十両ほどと評価し、「孫六、和泉守と存じ、合いそうらえば」
と云う些か阿諛めいた賞賛が見受けられる。

また「作も珍しく候」との寸評が記されており、助長がこの当時から
珍品であった様子も見て取れ、同様の所感は残り三通にも共通して
いる。

尚、この書状は後世の規格化された鑑定状とは異なり、書式
からは手簡に他ならない。然し、文面の趣旨は鑑定書そのものに
違いなく、前述の通り便宜上これも添状と仮称していく。

資料.四】〈破ノ序〉 発信人は次郎左衛門忠益とあるが、次郎
左衛門は光二系分家の家督名であり同家系には忠益を名乗った
者は居ない。
然し宗家十二代目の光常が忠益を諱としており一応彼と同人として
おく(理由は後述)。

本通も追而書が先にあり、先日はゆっくりお目にかかれたとの
儀礼の辞のあとに助長を三枚五両と代付けし、珍しき指料と評して
いる。

黒田氏が光傳の添状に飽き足らず、重ねて忠益の鑑定を求めた
ことは、今日我々が保存刀剣や特別保存刀剣の審査を経て
重要刀剣に臨むような筋道を踏んだものと思われ、光傳の賛辞に
気を良くして宗家の折紙を望んだのであろう。

而し折紙の発行は代付五枚以上に限られていたと云い、その
条件を満たせていない本件の場合は、光傳には無かった下げ札
(細長い紙の代付札)が発行されている。

また、追而書の「御道具金進上候」も少々理解に悩むところだが、
『随筆東鑑』に「本阿弥家江道具を出スニハ甚ダ心得多し」とし、
「上作ハ極め添状を乞フ事を先キニして見スべし、中作ハ仕立を
頼て見スル能し、下作ハ研を頼ムを先にして見スべし」とあるので、
従目的たる工作依頼の代金を、鑑定結果が不本意であろうと忖度し、
不要と云う旨を進上と言い換えて配慮したものと解釈している。

資料.五】〈破ノ急〉 受信人、今枝民部は名を直方(1653〜
1728)といい、岡山藩老の日置家から養子入りし、前田家の
家老職を務めたが『温古雑録』『甲戌旅行日記』といった紀行文
ほか多くの著書を残している学究者でもある。

黒田氏から今枝氏への所有権移転は同じ家中とはいえ、さほどの
大身とは云えない黒田家と大名に相当する今枝家とでは家格差が
開きすぎており、厳格な典礼が定められている武家社会の贈答とは
考えにくい。

或いは黒田氏も今枝家の奉公人、就中、日置家に本籍ある付人や
近習の類かもしれず、主家の祝事に進上したものであろうか。
そうなれば後に現代で云うところの個人情報に相当する黒田宛の
添状も含めて木村氏に下賜されていることが、旧所有者(黒田家)に
知られても支障のない内輪のこととして説明される。

発信人、久右衛門は加賀本阿弥の家督名であるが親信と云う諱も
系図に無い。

然し福永酔剣先生の御研究によれば、名著『光山押形』原本の
箱書きに忠庵親信の名が記されており、光山の嫡子にして
光山押形の真の著者、号は忠庵、法名は光貞であったと云う。

彼は部屋住みの身でありながら朝廷の覚え目出度く下総掾に
叙せられたのだが、宗家の光常が事前承諾のなかったことに
不快を示し、加賀本阿弥家の跡目相続を許さず、本阿弥系図
からも抹消したとある。

親信の筆致は是までの二通とは異なって慇懃な作法に基づき
簡潔である。然し代付けは二枚五両と大幅に下落させ、この鑑定は
同名ども、即ち複数の一族ともよくよく相談した結果と断っている。

さて黒田助長には既に二通の添状が有りながら、この上何故に
今枝氏から鑑定依頼がなされたかが疑問に浮かぶ。

然し純然たる鑑定書の折紙とは異なって、これら二通はやはり
所有者宛の私信であり、鑑定書としての効力は譲渡人にまで
及ばなかったのではないだろうか。寧ろ新旧所持者の添状ともども
揃っていることが希有であり貴重な事例のように思われる。

本通は親信の名で発信されているので廃嫡前に書かれたことに
なるが、同名どもとよくよく相談した上でとあるからには発信済み
文書の照会確認を怠ったとは思えず、宗家忠益が既に三枚五両で
代付けしたことを承知した上での所謂確信犯となり、忠益がこれを
知ったときの心中は想像するに難くない。

では何故親信は宗家の面目を潰すような真似をしたかであるが、
やはり添状の発行権は分家にあり宗家がこれを侵したということと、
その後ろめたさを糊塗するために光傳の次郎左衛門名を使い粉飾
したこと。さらには穿った見方になるが、父光山が宗家の相続放棄
さえしなければと云う侮りから来る反発ではなかろうか。

ここで順序が後先したが忠益を光常同人とする根拠について述べて
おきたい。

一般的に筆跡、署名とともに最も有効な確証となりうる花押の照合は、
公文書に等しい折紙に署されたものとは違って私信用の異体である
ため類例が無く、各方面に問い合わせているものの未だ判明には
至っていない。

然し茲に当時の一般常識として書札礼(しょさつれい)という厳粛な
書簡作法があり、文面から発信人、受信人双方の社会的地位・
身分差を伺うことが出来る。

その細則は小笠原流や曽我流など諸派によって多少の違いはあるが、
書簡の目的、用途毎に用紙の種類、大きさ、折り方から墨を注ぐ文字、
改行、闕如(けつじょ)(一字分の空白)などの綴り方まで書き手の好きに
出来るものは殆ど無く、敬称をとっても、「御」は三態、「殿」は七態、
「様」は四態もの書体が使い分けされている。

これに照らせば資料.三、光傳の黒又右衛門「様」は木偏の右を
「美」とするビサマ、つまり同輩宛を意味し、事実黒田と同じ家中で
文面からも遠慮の無い様子が見て取れる。

また資料.五、親信の今枝民部「様」は上位者宛に用いる「永」の
エイサマ
であり、本文も貴人宛へは草書を避けて行書で詰めぎみに
書くと云う作法に忠実である。

然し資料.四、忠益のそれは「平」とするヒラサマ、つまり下輩宛を
意味するもので同じ加賀藩中においてはあり得ない敬称であり、
これが光常同人であれば黒田氏とほぼ同じ身代の二百七石ながら
宗家は将軍家お抱え、片や外様大名の陪臣と云う地位の差が
そうさせているとして不思議無い。

従って忠益と光常は同一人物と思われ、このように宗家の鑑識眼を
あげつらった行為が意趣返しの一端に繋がり、親信の廃嫡と云う
強権発動を招くに至ったのではないだろうか。

資料.六】〈急〉 そして大団円とは言い難いが、二十二歳にして
光常から跡目相続を許されたのが親信の嫡男、光顕こと本通の
発信人重郎右衛門親清である。宛名が切り取られて不明であるが、
用件のみを簡潔にしたため、上下の広い余白幅や、崩し文字の
少ない書法は親信のそれに近く、やはり上位者宛へと向けられた
ものであり、当然ながら今枝氏がその人といえる。

代付けは忠益が極めた通りの三枚五両であるが、これは今枝氏
からの依頼というよりは宗家の鑑識眼を絶対化しようとする威圧に
屈した再発行に思え、父親の不遇に心痛めていた様子が反映して
なのか、用向きを伝える文字数は前三通の平均百十六文字の
半分にも満たない五十二文字と素っ気なく、かつ紋切り型である。

またこれまで一貫して大脇指と称されていたものを、本通では刀と
改称し、別物に錯誤させるような文藻でささやかな抵抗とでも云う
べきか、不条理を慷慨する青年らしい心理が伝わってくる。

然し今枝家でも、こうした慇懃無礼を忍ばせた添状に家名は残されず、
宛名を切り取った上で木村氏へ下げ渡しているが、念のため刀博へ
持参し、有識者に御意見を伺ったところ偽造文書の疑いはなく、
一尺九寸七分という長尺寸法であれば拵え次第で刀としたことも
考えられるとの御返事があった。

また宛名の位置も、それまでの端裏から表面左端へと移っているが、
これは新規の書式と云うよりは、二つ折り奉書に書かれる様式の
添状へと至る変化が、彼の相続した宝永頃から出始めたとも考えられ、
そのため前三通に比べて殊更生硬な文面に感じられるのかもしれない。

(以上、『本阿弥光山押形』の解説と『日本刀大百科事典』(福永酔剣氏著)
より多くを孫引、参酌した)



あとがきに代えて

これまで調査を進めてきた中で、親信も珍品と評した刀である
ならば『光山押形』に所載はあるかと期待したところ、資料.七
目に留まった。

この押形は茎の上に紙を置き石華墨で姿採りする手法と異なり、
茎の下に紙を敷き、鉛筆のような細い筆記具で輪郭をなぞって
いると思われる。
従って外周は若干大きめで歪みごころがあり、逆に目釘穴は一回り
小さく見え、銘は手書きの模写である。試みに黒田助長を同様な
方法で採拓したところ、資料.七と重ねてほぼ同じであり、添え書き
の所見も「イ淺シ(庵浅いと解釈する)小乱高田ナドニ似」とあって
同一刀である可能性が高い。

今日、刀剣界が光山押形から受ける恩恵は計り知れず、こうした
所載刀を見るたびに感慨深い思いに浸されるとともに、このような
労作を遺した親信の境遇には同情心止みがたいものがある。
そのため勤めて客観的に推敲したつもりであるが、尚それでも
判官贔屓や牽強に過ぎるとのご叱正意見があればお許し願いたい。

なお本稿を執筆するに際しては岡崎市美術博物館学芸班長の
堀江登志実氏より文書の難読部分について御添削頂きました。
本誌面を拝借して御礼を申し上げます。


岐阜県支部 近藤 邦治