「美濃鍛冶小論」
10−3 草道島
草堂島とも書き、金生山東側を流れる抗瀬川(当時の揖斐川)を
中にした赤坂の対岸に位置し、現在では赤坂の地とは目と鼻の位置に
ありますが、室町初期に於いては、抗瀬川の川幅も広く、交流には
渡しによる方法しか有りませんでした。
しかし、当地の西円寺に残る「西円寺文書」によりますと、慶長年間
までは赤坂に属していた事が記されていますので、草道島鍛冶が活躍した
時期は赤坂とは同一経済区域で、その名称が示すように、抗瀬川の
中州の島で、数多く存在した集落の一つの名称でありました。
この地の土地柄もたび重なる洪水による天災で、住民にとっては安住の
地ではなく、草道島鍛冶の活躍の期間も文明(一四六九〜一四八七)を
中心とした室町中期の時代が中心になります。
流通路関係では、中山道の街道筋の北に位置し、揖斐川上流部に
通ずる間道で、現在草道島鍛冶の活躍した形跡は全ったく存在せず、
現存作品、刀剣書等により、室町時代の初めこの地にて刀鍛冶が
鍛刀活動を行った事が知られるのみです。
同地内の「西円寺」のみが、当時この地に人々の生活の場があった事を
物語っています。現在では、大垣市の一町名としその名を残しています。