「美濃鍛冶小論」
11−1 坂倉鍛冶の地
志麻鍛冶(小山関)の一族正吉、正利、正俊等が隣接の地、志麻郷より
木曽川沿約五キロメートルの下流の地、坂倉に移住し活躍したことから
坂倉鍛冶といわれ、関(せき)の地にも近いことから、関鍛冶との交流も
あった事でしょう。坂倉関ともいわれています。
この鍛冶集団の活躍の時代は、嘉吉(一四四一〜一四四三)ころから、
永禄(一五五八〜一五七〇)ころの間とされていますが、現存作品等から
考えますと、関鍛冶の活躍の時期、天文(一五三二〜一五五五)から、
永禄を中心に鍛刀活動を行っていたと思われます。
この地、坂倉は現在では酒倉と書き、酒蔵とも書かれた時があり、これ等
から坂倉に転化した地名でしょう。
木曽川右岸、中山道の要所のこの地、古くは『延喜式』にもみえる坂祝
(さかほぎ)神社の社名の転化とする説もあり(『加茂郡誌』)、今は加茂郡
坂祝町の大字名としてその名を残しています。
眼前を木曽の大河が飛騨川(益田川)を合流し、一挙にその水量を増した
地点で、庭先より舟を出し流れに乗れば、半日を要しない所(約四十キロ
メートル)に、千子鍛冶の活躍の地、桑名の地があります。
坂倉鍛冶、正利の「正」の字が千子鍛冶「村正」に酷似している事より
両鍛冶グループの交流が取りざたされている事は周知の通りですが、
このような土地柄を考えればむしろ交流を否定する方に無理があるように
思われます。
現に、昭和初期まで、木曽、飛騨の奥地からの物資搬出に、酒倉の地
より上流十数キロメートルの川湊が大いに利用され、その機能を十二分に
果たしていた事より彼等が活躍した室町期の社会情勢を考えますに、
眼前の川筋を相当量の舟の登り下りがあった事でしょう。
しかし、たびたび記しますように、これ等を立証する資料等が皆無で、
推論のみに終始する事は誠に心もとない事です。
逆説的に、「正」の字の酷似性は全く交流のない両刀工が、あのように
似通った文字を刻銘する事の不自然性より、室町末期の木曽川水系の
物資、人材の交流が、刀工集団にまでおよんでいたとする考え方は無理な
事でしょうか。