「美濃鍛冶小論」

12−1 美濃鍛冶の代名詞「関」


 「関」という地名は、一般的には、「関所」の意味に用いられ全国各地に
その名称がみられますが、刀剣界で「関」といえば、関物、末関等室町
末期の美濃鍛冶の代名詞に用いられ、また、越前関、尾張関等刀工集団の
出身地として用いられますように、現在の岐阜県関市を指しています。

 美濃鍛冶が室町の末期、関の地で一大刀剣王国を築き、日本刀の
歴史に輝かしい一頁を開いた事で、一躍全国にその名を知らしめる事に
なり、現在に至るも「日本刀の関」「刃物の関」という事でその地名が通って
います。

 刀剣に無関心の一般の方々にまでその宣伝は行届き、名刀「まご六」の
生まれた地とし、極端な方に至っては、関以外では日本刀は作られて
いない、というような思い違いまで生じています。

 現在の関市の方々の努力に頭が下がる思いが致します。
 南北朝期から室町期にかけて、関の地に刀剣産業が発達し、衰退した
経過は、本稿、「兼の字について」、「鍛冶座について」等の項で触れました
ので略します。

 また、関鍛冶の刀工個々については『美濃刀大鑑』(刀剣研究連合会編)
その他諸先輩の研究に詳しく発表されていますので参考にして下さい。

 美濃鍛冶を社会情勢等の好条件等もあったのでしょうが、短期間に
長い歴史を有する備前鍛冶と肩を並べるまでに成長させた関の地は、
現在では長良川中流域で津保川、武儀川との合流点の盆地で、長良川
河口より約四十五キロメートルに位置し、濃尾平野北東端に隣接し
相当内陸的な感じを受ける土地柄にありますが、関鍛冶が活躍した
室町時代は、長良、木曽両河川の河口も現在の岐阜市南西部まで
入り込み、江戸時代の記録によりますと、奥美濃の年貢、物資等の
搬出が、関市南西部に隣接した芥見(あくたみ)、岐阜市の北東端の
長良川、津保川の合流点)の川湊を利用した事が記されていますこと
より、美濃鍛冶の材料、製品の搬入、搬出に舟便が相当利用されて
いた事が推察出来ます。

 また、中山道の街道筋、飛騨路との分岐点のこの地は、奥美濃、
飛騨、中山道筋の物資、文化の中継点にあたり古くより栄えた土時柄に
ありました。

 江戸時代に入り、政治的な安定期になりますと、現在の東海道筋の
整備が進み、物資、文化の流通が東海道筋が中心になるにしたがい、
関の地の役割もその使命が半減し、往古の繁栄は失われました。