「美濃鍛冶小論」
12−3 鎌倉末期より鍛刀活動を
このような土地に刀鍛冶が活躍を始めたのは、鎌倉時代末期ころ、
この地の守護や地頭等の有力武士の刀剣需要を賄うために、「元重」を
頭領とする大和千手院系の鍛冶が招かれ鍛刀活動を始めたといわれ、
これ等鍛冶集団が関鍛冶の初祖と伝えられていますが、これを裏付ける
資料が現存しないため、疑問視する考え方も一部に残っています。
その後、「元重」の子と伝えられる「金重」が越前敦賀の地より関の地に
移住し、さらに南北朝末期に至ると、大和手掻系の「兼光」一門、やや
遅れた室町初期には、直江鍛冶、赤坂千手院系の鍛冶を合流しその数も
急増し、関鍛冶の基盤が出来上がりました。
この室町時代に入ってからの美濃鍛冶の動向(美濃各地より関の地に
集合する動き)に疑問を持ち、美濃鍛冶縁りの地を尋ね各地の方々に
数多くの御指導を受けましたが、現在まで、これを説明する資料の発見は
出来ませんでした。
ここでも推論による外ありません。
室町時代初頭の美濃鍛冶の分布は、志津の流れを持つ直江系鍛冶、
大和千手院系の赤坂鍛冶、大和千手院、手掻系の関鍛冶の三つが
各地にて活動しておりました。
この三派の内、直江、赤坂の二派は前にも記しましたように、地理的に
不安定な土地柄で、たびたびの洪水等により活躍の場を脅かされ、安定
した鍛刀活動を行うことが出来ませんでした。