「美濃鍛冶小論」
13−1 関鍛冶の刀剣素材
室町時代の中期から末期にかけて、美濃国・関の地で一大刀剣王国を築いた
関鍛冶集団(美濃鍛冶集団)には、たびたび書かせていただいていますように、
現在となっては説明のできなくなってしまった多くの疑問点があります。
その一つに、当時備前鍛冶をも凌ぐ大量の刀剣を世に送り出した彼等が、
その大量の刀剣素材をどのようにして賄っていたかという単純な疑問が生じます。
この点につきましては、諸先輩の美濃鍛冶に就いての数多くの研究の中でも
ほとんど触れられておりません。
今回、本稿を書かせていただくにあたり、当初よりこの点を疑問に思い美濃
地方の各地、関の地周辺、岐阜県内各地の資料館等を尋ね、各方面の方々、
諸先輩の御意見を求め、かつ資料の調査をいたしましたが、短い時間の事、
有力な手懸かりは見出す事ができませんでした。
したがいまして、本稿では広く諸先輩、読者の御意見、御指導を仰ぐ意味で、
当時彼等が採っていたであろうと思われる方法の幾つかを、私の推測ではあり
ますが列記させていただき、広く御指導、御意見をいただきたいと思います。
まず、素材入手方法を考える前に、当時の鍛冶集団がどの位の鉄素材を消費
していたかを、すこし荒っぽい計算ではありますが、算出してみました。
銘鑑によりますと、最盛期の関鍛冶の数は数百人いた事になり(一部では
五百人に達したともいわれている)、この鍛冶達の内一日平均二百人が仕事をし、
一日一本の刀を作ったと仮定し、一本当り約四キログラムの素材を使用したと
しますと、全体で一日当り約八百キログラム、一カ月では二万四千キログラム
という膨大な量を消費した事になり、少なく見積っても相当量の鉄を使用して
いた事が想定できます。
「剣工秘伝志」、その他、「たたら」関係の資料によりますと、室町期の
「たたら」操業では、三日四夜の操業で約五百貫(約二千キログラム弱)の
鉄を産したとありますが、これを二〜三日で使ってしまうという事になり、
当時としては相当規模の大きな製鉄産業のバックが必要となります。