「美濃鍛冶小論」

13−2 関鍛冶の刀剣素材(前号よりつづく)


 このような多量の鉄を入手する手段はいろいろ考えられますが、およそ
次のような方法が想像できます。

 一、地元にて製鉄するか、刀工自身が各々調達する方法。
 二、内陸部(飛騨、奥美濃)にて製鉄をし、河川を利用し運搬する方法。
 三、遠隔の地より、舟便にて運搬する方法。
 四、以上の手段を並用する方法。

 以上の様な事が考えられ、これ等について考えてみますと、仮りに一、二の
条件にて入手していたのであれば、関地内およびその周辺、内陸の地に彼等の
需要を賄うような大規模の製鉄および製鉄のための原料の産地また、それを
採取した痕跡が残っていて当然でありますが、現在まではそれらしき跡は全く
発見されていません。

 したがいまして、この様な手段の可能性は確率的に相当少ないと考えなければ
ならないでしょう。唯一つ、西濃の地赤坂の金生山で前にも書きましたように、
鉄原料の採取が大規模に行なわれた形跡は有りますが、これを大規模に製鉄した
記録、痕跡はなく、これを使用した鉄を素材の一部に使用した事は考えられますが、
主たる刀剣素材とした可能性は少ないと考えなければならないでしょう。

 残る手段は、遠隔の地より舟便による方法(当時、多量の物資運搬は舟便が
唯一の方法であった)となります。

 ここで一つ、当時関鍛冶集団の製品販売方法が素材入手に一役かっていた事が
考えられます。

 すなわち、彼等は全国各地に販路を求め、出張販売を行っていましたので、
製品の納品には当然舟便を利用した事でしょう。その帰り便に全国各地の鉄産地
より素材を満載し、関の地に帰った事が想定できます。

 この方法とは別に今一つ、彼等の作品等からも素材の入手先が想像できます。

 美濃鍛冶の作品の特徴の一つに、地鉄が「白ける」という裏日本系の刀鍛冶
との共通点が挙げられる事と、美濃鍛冶は古くより北陸地方の刀鍛冶との交流が
頻繁で、両地方の鍛冶の結び付きは深く、当然いろいろの点でこの関係も利用
された事で、鉄素材も裏日本で製鉄された素材を入手していた可能性も相当高い
確率で考えられる事と思われます。

 北陸地方の製鉄の状況も調査の必要性が考えられます。
 この様に考えて行きますと、関鍛冶の素材一つを採り挙げても、これを解明
する事は、当時の物資流通、人の移動、商業活動等の広範囲の調査研究が必要と
なり、当然の事ながらその解明には相当の労力と時間を必要とします。

 この様な事を考えますと、日本刀の研究も刀剣のみを対象とするに留まらず、
より一層広い見地からの研究も必要な事ではないのでしょうか。