「美濃鍛冶小論」
14−1 現代の美濃鍛冶
江戸期を迎えた美濃鍛冶は、前期室町時代の面影を全くなくし、同時代の
他国鍛冶(江戸、大坂、肥前)等のような繁栄はなくなり、前期の名声を
たよりにほそぼそとその命脈を保ちましたが、徳川幕府の大政奉還により
明治の時代となった同九年、新政府により施行された佩刀禁止令により、
美濃鍛冶のみに止まらず全国的にその職を奪われることになりました。
このような社会情勢の変動の中で、刀剣関係職人はその職をなくし、農鍛冶、
打刃物鍛冶等に転職し生計をたてざるを得なくなり、一部には廃業する者も
出るに至りました。
しかし、美濃地方に於いては、その技術の絶える事に憂いを持った刀鍛冶、
善定派の流れを汲む小坂金兵衛兼吉は、現在の関市に私費を投じ「関日本刀
鍛練所」を設立、その技術の伝承に努めました。
その熱意はやがて満州事変、太平洋戦争を迎えるに至り、軍刀需要でその花を
開き美濃鍛冶の鍛刀技術も息を吹き返し、太平洋戦争終戦直前の昭和二十年には、
関の地に昭和刀関係者を含め、刀匠二百数十人、研師三千人を数え、月産二万本
(内約千本が鍛練刀)に達する軍刀一大産地にまで復興することになりました。
戦後、当地の地場産業であった刃物産業への軍刀産業関係者の転職で、関の
地は刃物産地として現在その隆盛を誇っております。
しかし、この技術も敗戦を迎え日本刀を武器とする連合軍の考え方により、
一部を除いた刀剣の所持、およびその製作が禁止され、再度技術伝承の場を
奪われることになります。
この様な受難も、本間順治氏等の努力により、昭和二十六年講和条約発行に
伴い、美術品としての日本刀の所持が認められ、同二十八年にはその製作も
許可され、現在に至った事は皆様既に御承知の事と思います。
このような社会情勢の変化に応じ、関鍛冶も過日の技術を復興し、現在多数の
刀職関係者の方々が活躍されております。
以上の変遷は『美濃刀大鑑』(刀連発行)に詳しく出ておりますので割愛
させていただき、ここでは現在の関地方の刀剣関係の職方の活躍の情況を紹介
させていただきます。