「美濃鍛冶小論」

16−1 美濃鍛冶と神仏


 刀鍛冶と神仏との関わりは、古くは謡曲「小鍛冶」の三条宗近伝説、
備前鍛冶の「熊野詣」、刀鍛冶が作品を神仏に奉納する等々、おそらく日本刀
発生以来、神仏とは切っても切れない関係にあった事と思われます。

 理由はいろいろ考えられますが、日本刀素材の「和鋼」が原因の一つにあると
思われます。

 すなわち、「たたら」製鉄法による和銅の製法は、ご存知のように素材の砂鉄、
炭、築炉に用いる炉材(粘土、赤土)等すべて自然の素材をそのまま使用し、
積み重ねられた経験と職人の勘のみに頼る作業の連続で、時にはまったく意に
反した結果に成る事が多くあった事でしょう。

 技術の進歩した現代においても、作刀工程においては鍛造、火造、焼入等の
工程を採っても職人(作者)の勘のみが頼りの世界、「掟(おきて)」という
少々誤まった言葉で表現されていますよう、その手順においては細かな工程が
守られ、その手順を誤まれば、結果は失敗に帰するといわれる程、経験と勘が
必要な作業の連続が日本刀製作であります。

 このような状況下において、より良い「刀」を作り出すために、人間の力を
超越した神仏の力を頼りとする考えが発生し、そのような考えが信仰心に発展
することは当然のことでありましたでしょう。

 また一方では、数多い道具の中で唯一つ、人命を遣り取りするための直接の
道具であるという性格上、製作者、すなわち刀鍛冶、またそれを所持する武士達に、
刀に対し護身、加護等を神仏に対し求めた事はむしろ必然的な事でありました。

 ところが、美濃においては少々様子が異なったと思われる事が末期美濃鍛冶に
みられます。

 鎌倉時代末期に発生をみ、南北朝期より室町初期にかけて大和鍛冶を中心とした
鍛冶グループの移住により、その基盤を作り上げた美濃鍛冶も、初期においては
前に書きましたように、良刀を作り出すため、神仏に対し純粋な信仰心を持って
いたと思われ、「南宮大社」の社(やしろ)等は刀工達の心のよりどころの中心的
対象となっていた事が考えられます。