「美濃鍛冶小論」
16−2 関の地に春日大社を
この傾向は、美濃鍛冶の活動が「関(せき)」の地に中心を移し、この地に
「春日神社」を再建する永享ころまではつづいた事でしょう。
ところが、このころより応仁の乱を発端とする戦国乱世への世の移り変わりに
対応するため、関鍛冶の春日神社に対する考え方が変化してきた事が考えられます。
すなわち、関鍛冶は「七頭制」といわれる組織を主軸とし、その中心に春日神社を
奉り、神力を鍛冶集団結束の要としました。
その結果、作刀の数も徐々に増加し、販路もそれまでの美濃国近隣にとどまらず
各地に広がっていった事でしょう。
各地に客先を広げていけば、当時乱世の世の中当然の事、製品は渡したが代金の
回収がスムーズに行われなくなった事も多々発生したでしょう。
このような時、彼等は神仏の力を利用したとは考えられないでしょうか。
すなわち、「春日神社」の氏子のわれわれ、その御威光により作刀した刀、神の
意向に背くような振る舞いには、神罰があたるであろう。
このような事をいったかどうかは別にして、今の世に比べ、信仰心の強かった
当時の人々は神罰があたるといわれればそれに背く事は相当の勇気がいり、しぶしぶ
代金の支払に応じたことでしょう。
この話、得能一男氏よりの請け売りである事を注記させていただきます。
氏の話の如く、彼等がいろいろの面で神の力を十二分に利用したであろう事は
想像できます。
このように集団組織による作刀方法を築いた美濃鍛冶は、「春日神社」の神力を
柱に、組織の団結、販路の確保にとその力を最大限利用した組織集団であったと
考えられます。
乱世の世界、美濃国の風土が生み出した関鍛冶集団組織、現在の進歩した時代から
みても、組織の力が実に合理的に運用されていた事などから考えても、組織の中心的
人物が前記のような今にいう「ドライ」な考え方を持ったとしても決して不思議な
事ではないでしょう。