「美濃鍛冶小論」
17−1 南宮大社
今回は、先回ふれました美濃鍛冶の信仰の対象であった「南宮神社」を紹介
させていただきます。
南宮神社(南宮大社)は現在、岐阜県不破郡垂井町宮代の養老山系北端、
南宮山北麓に鎮座し、古くは美濃国一宮、戦前は式内名神大社、国幣大社の
格式を有し、南宮社、南宮大社と呼ばれていました。
文献等では、仲山金山彦神社、中山南神宮寺等の名称であらわれます。
中山の名称は、養老山地と伊吹山地の間にある南宮山をさす別名です。
『延喜式』神名帳の記載によりますと、不破郡三座の一、「仲山金山彦神社
名神大」に比定され、当社の社伝によりますと、神武天皇が長髄彦を征した
とき、金山彦命が八爬烏を助け、その霊験があらたかであったことから、
不破郡府中の地に金山彦命を祀り、八爬烏を配祀、東山道を鎮めさせたと伝え
られております。
崇神天皇は即位五年、これを中山の麓に移し、この地が府中の正南にあたった
ことから南宮と称したことが南宮神社の社名の発生といわれています。
社の創建については、壬申の乱(六七二)の際、本営の野上行宮(現関ケ原)
にあった大海人皇子が当社に戦勝を祈らせ、即位後行宮の宮殿を当社に寄進した
ことに始まるとの伝説があり、当時の創建であることがうかがわれます。
当社の主祭神、金山彦命は、金山、採鉱、製鉄等、金属関係をつかさどる神で、
中山の名も鉄の産地にかかわると伝えられていますことからも、古代に於いては
この地は製鉄産業にかかわる産業が栄えていたことが想像できます。
しかし、現在これらを裏付ける資料等は見当りません。
ただ、当社に隣接する地美濃国府の発掘資料から推察しますに、国府建造当時
(奈良時代)すでに相当規模の製鉄産業の発達がうかがわれます。
文献等によりますと、当社江戸期までは、神仏習合の社であり、数多くの分社を
有していましたが、明治時代の神仏分離に伴い、分社を分離し独立した現在の
南宮神社の様式がととのえられました。
関ケ原の戦により、社殿の大半を焼失した神社は、幕府に社殿の再建を願い出
ましたが許可が降りず、仮社殿の造営に着手し、慶長十六年(一六一一)に完成
しました。
その後、寛永十六年(一六三九)、社殿造営許可が降り、費用の支給があり
本格造営に着手、同十九年各社殿をはじめ、仏像、神輿、仏具、石鳥居などが
建立され、翌二十年には三重塔の完成をみ、現在のような社頭が整えられました。
当社の祭礼は、年間五十回の多くにおよびますが、中でも五月四日の田植祭は、
翌五日の例大祭とともに国指定重要無形民俗文化財に指定され有名です。
今一つ、刀剣関係の祭りとして十一月八日の金山祭は、一名「鞴(ふいご)祭」
とも呼ばれ当社の中心的祭礼の一つで、主祭神「金山彦命」を祀るお祭りとし、金の
総本宮として全国の鉱山、金属関係業者が多数参拝され、現在でも、関係業者に
とっては重要な神事の一つ数えられています。
また、祭礼中には関の刀匠等により、古式の鍛錬式が奉納され、古より刀鍛冶達の
信仰のまとであった事がうかがわれます。
本殿以下、拝殿、高舞殿、廻廊、神輿舎、桜門など十五棟、および石輪橋、下向橋、
石鳥居は造営文書、棟礼とともに国指定重要文化財に指定されています。