「美濃鍛冶小論」

18−3 鉄塔をめぐる俗説


 住職の話の前に、朝倉山、真禅院の略歴を少し紹介いたします。
 明治以前は、南宮神社社僧の一つであった真禅院、神仏分離政策に伴い、
破壊の運命にあった仏教関係の建物等を当時この院の僧「秀覚」なる人が
これを憂い、村民の協力のもと、現在の地(朝倉山)に移築し、現在の
朝倉山、真禅院が誕生しました。

 この際、移された主なものに、前回紹介いたしました鉄塔を始め、国指
定重要文化財に指定されています「本地堂」「三重塔」、平安期の作と
伝えられる梵鐘等数多くを数えています。

 この院は、遡れば古く、天平十一年(七三九)行基により開基された
南宮神社の僧院の一つと伝えられています。

 鉄塔にまつわる住職の話といいますのは、前回紹介させていただきました
写真から、戦前の方なら野外に於いて、食事等を作る際に用いた「くど」を
連想された方が少なからず居られたと思います。

 即ち、関ケ原の戦の折、南宮神社を間にして東軍の「池田輝政」、「浅野
幸長」軍等と対陣した毛利軍、兵の食事炊出し用に当時南宮神社境内に在った
鉄塔に炊口を作り、食事の煮炊にこの鉄塔を用いた。その為、現在のように、
最上部を散逸し、下部に欠損のある形が現在残されているとの話。

 この話、真偽のほどは定かでありませんので、恐らく後世、現在の形を
見た人が、このような話を作り出したと思われます。

 戦国時代の武将、神仏を信ずる心は大変強く、たとえ戦時下の御時勢と
はいえ、梵字、菩薩等が鋳出された塔を煮炊きの為に利用するとは到底考え
られず、後世の作話であることは間違いないでしょう。