「美濃鍛冶小論」

19−1 関鍛冶が再建した神社


  関鍛冶繁栄の要因の一つ、「七頭制」の要、信仰の対象とされたと考えられる
「関・春日神社」は正応元年(一二八八)刀匠兼永、金重によって、彼等の古里の
氏神、奈良「春日神社」の御神体を分神、勧請し建立されたと伝えられています。

 その後、荒廃していた同社を永享五年(一四三三)当時その勢力を拡大しつつ
あった関鍛冶の手によって再建復興し、同社を関鍛冶の惣氏神と定め、神事、祭事の
すべてを関鍛冶の手により取り行ったと伝えられています。

 現在の同社は、鎌倉時代の様式を残す建物で、同社内に現存する能舞台は、室町
時代のものと推定され、古様式の桁のない四本柱建能舞台としては珍しいものと
いわれています。屋根の破凡その他一部を除いて大部分は、寛文五年(一六六五)
八月、関領主大島雲八によって改築された建物と伝えられています。

 この能舞台で幕末までつづいたといわれる祭事能は、伝えによれば応永二年
(一三九五)刀匠兼吉清冶郎が関七流を代表して翁役を勤めた事が始まりとされて
います。しかし、伝承の出所は定かでなく、時代的に今一つ疑問が残りますが、
関鍛冶が同神社にかかわった伝承の一つとしては無視する事のできない言い伝えと
思われます。