「美濃鍛冶小論」
2−1 楽市、楽座で崩壊した鍛冶座の特権
この「兼」の字の持つ意味合いを示す話の一つとして、ある時「兼」の字を
勝手に名乗った刀工を、座仲間連中が寄ってたかって打ち殺したと伝えられて
いるほどに一時期、関鍛冶の間においては、この「兼」の字の名乗りが重要な
ものだったのです。
このように「兼」の字は重要な意味を持っていました。しかし、室町末期の
戦国大名、織田信長により美濃国内で施行された「楽市・楽座」の令により、
それまでの鍛冶座の持つ特権がすべて剥奪され、さしもの結束力を誇った
「鍛冶座」も崩壊し、各自にそれぞれ新しい需要先を求めるようになりました。
そして、全国各地に分散移住したり、有力大名の、戦時における武器の安定
供給を目的とした招きに応じ、その城下に移り住むものが出始めました。
有力大名の城下に住み庇護を受ける身となった彼らは、それまで生活の糧で
あり、関鍛冶の鍛冶座を構成する一員としての証しであった「兼」の字が、
その意味合いをなくしたため、庇護大名の一字を賜って銘に冠したりして改名
する者も多く、長い間美濃鍛冶の歴史とともに生き続けた「兼」の字も、鍛冶座
組織の崩壊とともにその終末を迎えることになりました。
このように「兼」の字を改めた代表鍛冶に、尾張関一門の、兼房から氏房、
兼常から政常、兼高から信高、などがよく知られております。
またその一方では、室町末期に全国的知名度を誇った「兼」の字を名乗る
ことによって、関鍛冶が有する伝統的な信頼に頼り、全国各地に移動する鍛冶も
多くありました。
これら美濃鍛冶の移動先での活躍は目覚しいものがあり、美濃鍛冶座の全盛期に
習得した鍛刀法(美濃伝)を最大限に発揮し、不折、不曲、抜群の斬れ味を
有する日本刀の本来の実用性に加えて、新しい時代の流れに即応した華やかさを
加えて、時流に対応しており、またたく間に確固たる地位を築き上げており、
新刀期の日本刀鍛冶の基盤作りに大いに貢献する事になりました。
新刀期の日本刀鍛冶の七割以上が、美濃鍛冶(関鍛冶)の直接の影響を受けて
いると言われるくらい、その後の日本刀鍛冶の歴史の中で、美濃鍛冶の果たした
役割は大きく、現存する新刀期の日本刀を見ると、その大部分に美濃鍛冶の影響が
認められる事からもその役割の大きさが納得出来ます。
美濃鍛冶の創設とともに始まった「兼」の字の歴史も、幾多の変遷をくぐり抜け、
新刀期以後は関鍛冶の末葉としての証しの役割のみとなり、幕末、明治の時代を
経て現在まで受け継がれています。