「美濃鍛冶小論」
2−3 七流派の合議制で運営された鍛冶座
その後、宝徳(一四四九〜一四五一)ごろまでに、善定、室屋、良賢、三阿弥、
得印、徳永、奈良の各流派の代表による「七頭制」といわれる「鍛冶座」が完成
され、室町末期に組織が崩壊するまで、運営に関するすべての事が、この七流派の
代表合議により運営されました。
「座」とは、鎌倉時代に始まると言われ、商工業者、交通運輸業者、芸人らが
結束し、朝廷、公家、社寺などに座役といわれる労役、金銭、現物などを納める
代償として、全国的な販路(営業権)の独占、課税の免除などが保障される
組織のことで、室町末期の時代までの経済活動、文化活動に大きな役割を果たした
ことは御存知の方も多かろうと思います。関鍛冶の「鍛冶座」が、このような
全国的な活動範囲を持った組織であったかどうかは疑問がありますが、春日神社の
神力を背景に当時全国一を誇る生産体制を作り上げていたことからも、当時の
日本刀の鍛冶の間では相当の力を持っていた事が考えられます。
このような統制のもとで作られる作品は、販路拡大のため、安価で実用本位の
中級品、すなわち、折れず、曲らず、良く切れる、という日本刀本来の機能のみを
追求した作品となり、未開鍛冶に代表される、いわゆる「美濃伝」といわれる
鍛法を完成させ、その後の日本刀の製法に大きな影響を与えることになりました。