「美濃鍛冶小論」

4−2  兼定、兼元には年紀のある作が多い


 このような手段としての鍛冶座組織のもとで、全国各地に出張って広い範囲の
需要先を相手に、いわゆる見込生産を行った美濃鍛冶は、その製品の販売される
時期が何時になるか解らず、もし売れ残って次年に持ち越した場合などは、むしろ
製作年紀を刻する事は販売の妨げになったことなどが考えられます。ところが、
鍛冶座組織が本格的な活動を始める以前と思われる永正、大永頃には、「兼定」
「兼元」などに年紀を刻した入念に作られた作品が相当量現存することからも、
この時代までは美濃鍛冶も地方の有力武将などを供給先とし、備前鍛冶と変わらぬ
鍛刀活動を行っていた事が推察出来ます。
 
 「美濃伝」の項でも触れました天文頃から以降は、作刀数が圧倒的に多くなったの
にもかかわらず、年紀を刻した作品が急に減少します事から推しても、鍛冶座の
活動もこの頃を境いとして本格的になり、その組織力の強さ、及びその効果も
だんだんと発揮され始めて来たものと思われます。

 このように、現在我々が経眼する事が出来る作品から、美濃鍛冶が活躍した時代、
動きなどの一端を推察することが出来る事からも、現存作品に対する考察を今以上
注意深くする必要性を感じます。