「美濃鍛冶小論」
6−1 「志津」と「直江」の地
美濃鍛冶の発生については、諸説いろいろありますが、『往昔抄』所載になる
「濃州大野郡西郡(さいぐん)住寿命……」の永仁年紀資料をもって美濃鍛冶の
発生と考えることがいろいろな傍証から推して一番無理のないことと思われます。
しかし、当時の美濃国西部に点在する小規模の鍛冶集団で、室町中・末期に
みられるような組織的な集団を形成するまでには至っておりませんでした。
美濃鍛冶が本格的に活動を始め、世に知られるようになるのは、鎌倉末期より
南北朝初期にかけ、世情の混乱に乗じ、大和国より、志津の地に移住した兼氏を
代表とする一門、同じく赤坂の地には千手院系の鍛冶集団、北陸の地より金重、
為継らを代表とする北陸鍛冶の移住が初めとなります。
この鍛冶達の移住先の一つ志津の地は、伊勢国より、不破の関に通じる養老山系
沿いの通称「伊勢街道」の美濃国の入口にあたり、現在の行政区画では、岐阜県
多芸郡南濃町の字名で、揖斐川中流の支流、津屋川の右岸にあり、養老山系の東側
山麓に沿って開けた土地です。志津の地名が示すように、当時は伊勢湾に面した
良港であり、兼氏一門が居住したといわれる鍛冶屋谷には鎗掛岩といわれる兼氏
ゆかりの大岩伝承が伝えられていますが、現在では確認は出来ません。
この志津の地に、鎌倉末期、大和国より刀剣鍛冶が来住したことは、背後に
養老山系をひかえ、窯土、焼刃土、焼料用の材木などが豊富に入手出来、ある程度の
鉄素材(鉄鉱石)の入手も可能な土地柄に加え、前記のように眼前に伊勢湾の
開けた港であったこの地の条件を考えれば当然の事で、当時、世情の不安に乗じ、
勢力を広げつつあった土岐氏等の勢力を頼っての移住であった事でしょう。
しかし、この地での居住も長くは続かず、たびたび発生する洪水などにより、
この地を離れ、ほど近い北方の地、直江に移住し鍛刀しています。
この直江の地に移住した志津一門を後世、「直江志津」と称することになります。
このようにして移住した直江の地は、牧田川、杭瀬川の中州に当たる土地で、
彼らが移住した当時は、揖斐川の本流がこの地を流れ、おそらく輪中(部落の周囲に
堤防を築き村落全体を水害から守った部落形態)形態を作り、鍛刀活動をしていた
ことでしょう。
現在では、養老町の大字で、附近一帯は田園、畑地が開け、近くを名神高速道路が
走る平坦地で、この地に立って見ますと、彼らが活動した当時は川底のような感じを
受ける土地柄です。