「美濃鍛冶小論」
7−1 「志津」の地のこと
江戸時代末期までのこの地は伊勢湾が深く入り込み、大水が出る度に
川筋が変わり、小規模の輪中部落は、その都度、消滅を繰り返すような土地
柄でありましたことからも直江の村落も水害の度、相当の害を受けた事が
想像出来ます。
このような土地に、大規模な集団が長期にわたり活躍する事は出来ず、
直江志津一門も室町期に入ると、関、赤坂の地に分散移住し、その形体は消滅
してしまいます。
したがって、彼らの活躍した時期は、ほぼ南北朝期に限られ、わずかに
室町期にこの地での作刀と思われる作品がみられるぐらいです。
現在、南北朝期と思われる在銘作品で確実なものは非常に少なく、現存
する作刀のほとんどが無銘作品で、その量も実に多くみられ、その数量から
推察しますに、当時直江の地には相当規模の刀工集団が存在した事になり、
実際現地の土地柄等を調査してみますに相当の無理があるように思われます。
したがいまして、今後無銘作品の極めなどに対しても、慎重な姿勢でもって、
基準も厳重にする事が要求されます。
このようなことは、前記の志津鍛冶においても同様で、志津鍛冶が鍛刀
場所としたといわれる土地も養老山脈に入り込んだ谷間で、洪水により地形が
変わったといわれていますが、直江の郷と同様、大規模な刀工集団の
生活は考えられない土地柄です。