「美濃鍛冶小論」
7−2 「赤坂」の地に来住した鍛冶
南北両朝の抗争に乗じて、大和国より手掻系の刀鍛冶が「志津」「直江」に
移住し活躍を始めたのとほぼ同時期、直江の地の北方、赤坂とその周辺の地には、
同じく大和の千手院系の鍛冶集団、北陸の地からは、大和鍛冶の流れをくむ、
為継、国行などに代表される北陸鍛冶達がこの地に来住し活動を始め、美濃鍛冶の
本格的活動の基を作り上げましたことは、たびたび記したとおりです。
後世、これら鍛冶グループの中心は、「赤坂千手院」と呼ばれるようになり
ました。
室町時代に入りますと、彼らは、赤坂の地を離れ、美濃国各地に分散し活動を
始め、室町末期まで栄えた美濃鍛冶集団の中で大きな地位をしめる事になります。
また、新刀期時代には、赤坂千手院の名跡を継承し、各地で活動し、中でも
後世「江戸千手院」といわれるグループは江戸の地で活躍したことで有名に
なりました。
代表工として、守国、守正らが有名です。
このように、初期美濃鍛冶を育んだ赤坂の地は、美濃国西部、濃尾平野の
北西端に位置し、西国への通路、中山道の「不破関」に隣接する宿場として
古くより栄え、奈良時代より歴史に登場し、鎌倉時代には「抗瀬川(くいなせがわ」
の駅と呼ばれていました。
また、交通、戦略上の重要な拠点に位置することは、たびたび説明させて
いただいたとおりです。
地形的には、南方より養老山系、西方には伊吹山、北方は揖斐の山々と三方を
山に囲まれ、東方が濃尾平野に開けた東国への出発点に当たります。
また、町並北部は、現在では石灰、大理石の産地として有名ですが、古くは、
その名の示す通り金属が堀り出されていたと察せられ、中でも赤鉄鉱(ベンガラ)
は製鉄の原料とされ、戦後まで採掘されていた事で有名な「金生山」を控えて
います。
このように鉄原料の豊富な金生山を背後に、陸路(中山道)、水路(当時は
揖斐川、現在は抗瀬川)の便に恵まれ、かつ戦略上の重要拠点の赤坂の地に、大和、
北陸の地より刀工集団が移住し活動を始めた事は、当時の社会情勢を考慮すれば
容易に理解出来ますが、室町時代彼らが、この赤坂の地を離れ、美濃各地に活動の
場を移した事に関しては現存資料では説明がつかず、美濃鍛冶のなぞの一つとして
残されています。
この答えの推論の一つとして、赤坂の地が、明徳(一三九〇〜一三九三)年間
に発生した洪水により、揖斐川本流が東方(現在の大垣市)に流れを変えるような
水害が、彼らを赤坂の地より離れさせる要因となったのではないかと考えますと、
美濃鍛冶集団の変遷にも今一つ興味がわいて来ます。