「美濃鍛冶小論」
8−1 抗瀬川を利用した美濃鍛冶
抗瀬川は、古くは株瀬川、久瀬川、赤坂川などと呼ばれ、赤坂町の東側を南に
流れて揖斐山系を水源として、牧田川、相川、金華川等の河川と合流し揖斐川に
流れ込み伊勢湾に流れ出す全長約二四キロメートルの中規模の河川で、牧田川
との合流点には直江志津刀工の鍛刀地、直江の地があります。
この中規模河川の抗瀬川も戦前までは水量が多く、金生山の石灰を舟便にて
搬出する等の、物資運搬のための重要な河川とし利用されていましたが、鉄道
線路の発達に伴いその役目をなくし、現在では赤坂町附近で川幅十数メートルと
なり、排水が主な役目の河川となってしまい昔の大河の面影は見られません。
しかし、この抗瀬川も室町時代においては揖斐川本流がこの川筋を通る水量
豊富な大河川で、当時は水路交通の重要な約割を担い、陸路の中山道とともに
物資流通のための重要な河川でした。
この時代、赤坂を中心に活躍した美濃鍛冶集団もこの川を大いに利用した事が
推察出来、美濃鍛冶変遷に大きな影響を及ぼした事でしょう。
しかし、記録に残るだけでも、明徳年間 (一三九〇〜一三九三)、享禄三年
(一五三〇)等の大水害に見舞われ、揖斐川本流が現在の流れに変わってしまい、
現在では前記の通り中規模の河川となっています。
このように水害が川筋住民に無関係であるわけがなく、当時この地に住し
鍛冶活動を行っていた刀工集団にも何らかの影響を与えた事は想像出来ますが、
これらを裏付ける資料等は見当たりません。