「美濃鍛冶小論」

9−1  古くから栄えた青墓の地


 刀剣界の一部には、美濃鍛冶の祖を「泉水」とする考え方があります。
 この泉水といわれる刀鍛冶が、文献上に初見されますのが『平家物語』
『平治物語』の軍記物語で、平治の乱に敗れた義朝一行が都を逃れ西行の
途中、美濃国青墓の地で土地の長者に源氏重代の髭切(ひげきり)の太刀の
保管を依頼しました。これを知った平家は、長者に髭切の太刀を差し出す
よう厳しく追求したため、長者は当地の刀鍛冶「泉水」の作刀を髭切の太刀と
偽って清盛に差し出した。ということが記されています。

 この刀鍛冶を刀剣書では同様の記述で「外藤(とふじ)」という刀工銘で
扱っております。このような記述より、「泉水」「外藤」を美濃鍛冶の
ルーツとする考え方が今でも残っております。

 もちろん、現在この時代の美濃鍛冶の作品と思われる刀剣は現存しません
から、この記述に対する確証の取りようがありませんので、この事に対する
信憑性には今一つ疑問が残りますが、このような事がいわれてきたと言う事は
無視する事も出きません。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、美濃国西部に鍛冶集団が存在した事は、
奈良時代この地に国府がおかれ、国分寺、南宮大社等の国の重要施設、社寺等が
配置され、政治上重要な地域と考えられていました。

 また、以前にもたびたび記したように戦略上も重要な拠点であったこの地に、
軍事関係の産業の発達があった事を否定する事も出来ません。

 国府、国分寺などの造営にあたり種々の職人集団がこれにあたった事は
必然で、これら職人グループの一部により刀剣等武具の製作が行われた事は
容易に想像出来ます。

 これら職人集団が鎌倉期までこの地域で活動を続けた事も、当地の地域性を
考えれば十分考えられます。

 しかし、これら職人集団を本格的美濃鍛冶の祖とする事は以前にも記しました
とおり少々無理があるように考えられます。

 このような土地柄を周辺とする青墓の地は、赤坂の町並より中山道に沿った
西隣で不破関と赤坂の中間に位置し、西隣に美濃国分寺跡があります。

 地形的には、大谷川左岸の小高い台地で横穴式古墳群等が点在し、古くより
栄えた土地であった事を物語っております。

 また、東西交通路の拠点とし、平安時代よりいろいろの文献にその地名が
あらわれます。

 現在では、大垣市の西部の一町名として昔の名跡を今に伝えています。