日本刀鍛錬塾について
昭和12年4月に設立。 昭和20年8月15日大東亜戦争の日本国の
敗戦による終戦のため20日に解散式を行い、8月30日に塾生一同が
退塾する。
振り返ると、昭和7年に美濃刀匠擁護会(会長 後藤治兵衛、理事
後藤扇吉・山田長蔵・兼村虎之助・山田勝・生駒平十郎・森豊)の設立に
始まる。
七百年の歴史と伝統を有する美濃関伝の継承と日本刀鍛錬の技術
向上を図ることを目的に有志が後援会を組織した。
その後、昭和9年4月に「日本刀鍛錬・渡邊兼永指導所」が開設され、
支援者も増えたこともあって「日本刀鍛錬塾」となった。
昭和12年の日華事変から関では軍刀として大量に製作するように
なった。
昭和16年12月8日大東亜戦争が始まるまでは「昭和刀」とも呼ばれた
軍刀は自由販売・自由競争であった。 記録によると、昭和14年は
生産五百万円、翌15年は八百万円、16年は一千五百万円生産した。
戦争がはじまると、日本陸軍統制下となり全刀工は陸海軍の軍刀を
製作して、多い時は月産五万本から六万本を製作。中でも関刀剣株式
会社は軍監理工場となる。
当時、本鍛錬(ここでは玉鋼を使用して折り返し鍛錬をしたものとする)
の刀と昭和軍刀とか軍延べ刀と呼ばれた鋼の丸棒や角材を素延べに
して作られた刀に大きく分かれる。この違いは少し鑑定法を学ばないと
見分けがつかない。
関刀剣組合に昭和13年から昭和19年9月までに届けられた刀工は
232名で、未登録の人を含めると265名にもなる。 それは庖丁鍛冶・
鋏鍛冶・野鍛冶・農鍛冶等々鍛冶屋という鍛冶屋は全て刀を作った。
研ぎ師・鞘師・柄巻き師や外装金具を製作する人達、そして販売した
事業所は44社、個人は15名位の名前を調べた。とにかく町をあげて
軍需産業に係わっていた時代だった。
「日本刀鍛錬塾」の趣旨及び生徒募集要項は別紙に掲げるとして・・・
指導方針に就いては、「当塾ノ指導ハ個人的名匠、崇拝育デモナイ。
然シ画一的ノ凡教育デモナイ。総テ日本民族タル礎石タラントスル純情
ノ人材卜技術ヲ養成二在ル」。
また三訓として
「@大君ノ為ニハ血ヲ流スA人ノ為ニハ涙ヲ流スB己ノ為ニハ汗ヲ流ス」
とあった。 塾生達は実技の日本刀鍛錬を始め金属学・冶金学と日本刀
の歴史と鑑定法も勉強していた。 勉強風景の写真で和服の左から順に
松原正造(長野県)水戸守寿(福井県)小島寛二(関)。 塾生たちは関・
岐阜・武芸跡部・高山・遠くは和歌山・福井・長野県から来ていた。
鍛錬塾長・総匠 渡邊兼永、塾頭 山田長蔵(兼長)、塾生長 中田勇
(兼秀)、理事長 後藤治兵衛、理事 兼村虎之助・小坂利雄・椎名威・
福田好司・遠藤斎治朗・河田新次・吉田亨三郎・石田清三郎、主事会計
大野庄一が運営。