言継卿記(ときつぐきょうき)
最近 改めて「織田信長」が注目されている。彼の思想や生き方に感銘する人が多くなってきたからであろうと思います。岐阜の金華山麓で信長居館跡の発掘が進んでいます。
又 私がボランティアの案内人をしている岐阜公園の中にある岐阜市歴史博物館では信長の「楽市楽座」の様子を復元しています。

これらの発掘や復元には重要な二つの資料がある。
一つはポルトガル宣教師ルイスフロイス(1507-1579)が未知の国(野蛮な国)日本の様子を逐一イエズス会に書き送った「アルカラ版イエズス会士書簡」(岐阜市歴史博物館蔵)。フロイスはその中に信長に謁見した様子、金華山麓の信長居館の様子や岐阜の町の様子をイエズス会の宣教師の眼で詳しく書き残しています。

もう一つの資料は権大納言山科言継(1507-1579)という公家の日記「言継卿記」である。それは大永七年から天正四年(1527-1576)約50年間の膨大な日記です。その記述はまさにメモ魔「言継卿」と言っても過言ではないと思います。

それら2つの資料で岐阜市歴史博物館では、永禄十年(1567)頃の楽市楽座を復元し、金華山麓の信長居館跡の発掘の参考にしています。

今回私が取り上げたいのは「言継卿記」に書かれている公家の日常生活です。山科言継は大変な刀剣愛好家で、よく御所に参内した折に、帝の太刀の手入れをしたり拭いをしたり、太刀の磨り上げをしたり、拵えを拵えていた様子が生き生きと書かれています。その中には同朋衆の銀師正阿弥とも親しく親交がある様子も書かれている。

同朋衆と言えば、刀剣の磨ぎ、拭い、目利(鑑定)の本阿弥。唐物,茶道、水墨画の能阿弥、芸阿弥、相阿弥。
千利休の祖父、千阿弥。等が室町時代将軍の近くで雑務や芸能にあたった。

そして能楽を芸術の域まで高めた室町初期の観阿弥、世阿弥。

その観阿弥、世阿弥と同じ同朋衆の中に正阿弥がいた。刀装具や鍔を作る同時代や後の職人集団、正阿弥、金山、尾張、赤坂、様々な鍔師に観阿弥世阿弥の影響を受けて能楽の図柄が浸透した。そして教養として能楽を愛した武士達に能楽の図柄が好まれたのは当然のことと思われます。