試論「ウオカネ」について
若原利彦
始めに
濃州関鍛冶は藤原鎌足を祭神とする春日神社の氏子として連帯結束し、藤原の姓を戴いてきたことは周知のとおりである。
また鎌の旁「兼」を通字にして名乗ったとされており、これを関兼と称して伝わるが、大半は魚に見紛う書体のため巷間魚兼とも呼ばれてきた。
ウオカネは関鍛冶の発祥以前から活動していた兼氏や直江志津の一部にも見られるので、必ずしも関鍛冶のみの慣習とは限らない。
しかし本稿の目的はそれを考証するものではなく、風変わりなウオカネを取り上げるとともに、作風においては画一的な枠からはみ出せない彼らの多くが、こと刻銘に関しては個性豊かな、換言すれば自己顕示してきた跡を辿ってみたい。
ウオカネの変わり字
美濃鍛冶および美濃に所縁のある鍛冶を除いて兼を銘字とする著名刀工には、五条兼永、長舩兼光、長舩兼長、備後信兼(以上、参考1)などが知られるが、これらはウオカネではなく殆どが真行(楷行とも)、つまり楷書に近い行書体(資料1)で記されており、終筆に至る送筆を「人」、または「ハ」を二つ並べたように刻している。
これらに対しウオカネの書体は草書(資料2)に基づいており、本来は緩急遅速に字画を省略する円筆法(注1)で運筆すべきところ、楷書のような圭角を張らせた方筆(注2)で刻したものが多い。
その典型例の一つが孫六こと兼元(資料3)であり、収筆も列火「灬」(注3)のごとく刻すため、草書に馴染みのない現代人の目には魚(注4)のように映るのも無理からぬ事である。
さらに江戸後期の看板(資料4)においては全くの楷書文字として筆を走らせており、もはや草書から異体字へと推移していることが伺えるが、こうしたことは杦の草書から杉、定の草書から㝎が真書(注5)へと転化した文字もあるので、私的な書法とはいえ特段奇異なことともいえない。
しかし兼字百態といわれるように、全ての美濃鍛冶がこうした書体を共有しているのではなく、他国鍛冶に見る師風を受け継ぐという慣行も、一部の名跡を除いては執着する様子が乏しいように思われる。
また水茎の跡から悪筆まで様々ある中で、勝手に創作された私体字も多く見受けられるが、まずは資料5の兼則をご覧いただきたい。
兼則刀は天文十七年十二月日、兼則短刀には天文廿三年八月日の裏年紀が記されている同時代の同名別人作であるが、刀の「兼」は比較的に多数の類例を見かける代表的な銘振りといえよう。
それに対し短刀の「兼」は管見の限りほかに遺例がなく、6年の時間差を根拠に世襲代替わりがあったと解釈するには聊かの躊躇を覚え、代別研究においては慎重にならざるを得ない。
しかし末関では同名別人作が取り立てて珍しいことではなく、数少ない年紀銘作として資料的価値も評価されており、兼則の標本的な作例とみて差し支えないものである。
なおここで注視頂きたいのは、兼の収筆が兼則刀のそれとは正反対の向きに刻されていることである。
同様な例は兼永、兼花、兼光、兼景、兼得(資料6)などにも散見されるので、一人兼則短刀だけが間違えているわけではない。
また元々草書であるウオカネの収筆は、列火とは似て非なるものであり、これらをして運筆がおかしいとくさすことも適切とはいえない。
とはいえ大多数が列火の如く刻している中で、規矩を無視したかのような書体は異様であり、手馴れた鏨運びからは意図的な所為であることを感じさせている。ではこれは一体何を意味するものであろうか。
これに類似する事例として、某資料館に収蔵されている兼友刀の兼が鏡像文字(参考2)、つまり左右反転で記しているものがある。
こうした刻銘は兼清(参考3)の清にも類例を見るが、恒常的に刻しているものでは京鍛冶源左衛門尉信國の國(参考4)があり、新刀期の陸奥守包保とその門人、陸奥守包重に至っては全ての文字を反転させているので、通称を左陸奥と人口に膾炙する。
このように記す理由は、左利きの人が右利きに矯正された場合に突然起きるとか、学習障碍や脳障碍でも発生するなど様々な症例があり、未だ解明には至っていないという。
然るに兼友刀に対しては、この時代の刀工は文字を正確に把握しておらず、見よう見まねで文字を記号のように切ったのではないかという妄言がまことしやかに流布されつつあるが、こうした自虐史観的発想は刀鍛冶など文盲でも務まるという僻見にほかならない。
確かにいにしえの徒弟制度では先覚者の技を見て学び、秘伝に類するものも文字で伝授することはなかったと聞く。
しかし単純作業に隷従した雑仕ならいざ知らず、向槌ほか複数の門弟を率いていた工匠が果たして無筆で済むであろうか。
また遠隔地からの注文依頼にしても、通信手段が使者を派遣しての口頭伝達だけであった筈はなく、それすらも代読を依頼していたとは到底思えない。
そもそも刀鍛冶の刻銘慣習は大宝元年(701)に制定された大寶令の編目、營繕令において「凡營造軍器皆須依樣令鐫題年月及工匠姓名」、及び關市令において「其横刀槍鞍漆器之屬者各令題鑿造者姓名」と定められた条、即ち武器を始め、鞍、漆器などに粗悪品や偽造防止のため、姓名を入れさせたことが端緒という。
その後、律令制の終焉により実効性が喪失したにもかかわらず、刀鍛冶だけは律儀に継続してきた嘉例であるが、それは製造責任の所在明記が強制から自発的へと変化しただけでなく、品質保証として捉える技術者倫理、知性があったからであろう。
たとえば種子島で初めて火縄銃を製作した八板金兵衛尉清貞(注6)にしても出自は関鍛冶とされているが(注7)、地元でも知る人の疎らな一鉄匠ですら、指導者に恵まれない状況下で未知のハイテクノロジーを実践してのける怜悧さを有していたのである。
さらに高度な教育を受けた人物の中にも鏡像文字を記した事例が無いわけではなく、京都北野天満宮が所蔵する東山天皇(注8)の揮毫(参考5)は、祭神菅原道真の神号である南無天満大自在天神のうち「自在天神」の四文字と落款が反転した状態で書かれている。
本筆跡もなぜそのようになされたのか謎のままと伝わっているが、少なくとも教養の有無を理由とする見解はここでは通用しない。
従って識字率にことよせた見解には到底同意し難く、利き手が左であったという陸奥守包保のほかは、他者との区別化を意識したある種のパフォーマンス、つまり奇抜さを利かした自己顕示と受け止めるのが自然ではないだろうか。
この他者との区別化とは應永信國にもいえることであるが、末関には多くの同名鍛冶作があり、それらが同門一族であれば勿論のこと、無関係であったとしても作風の違いは大差ないものが多い。
それは鍛冶座による規格化、品質管理が徹底していた結果と想像するが、例え注文入念作でなかったとしても、自分の作品が他人のそれと紛れないよう刻銘に工夫を凝らすのは職人の心理、あるいは矜持として当然ではないだろうか。
いささか話が派生するが、地元の古老から次のような口碑を伝えられたことがある。
末備前の量産刀は分業制のため銘切り師が一手に刻銘しているが、関の鍛冶座が、例えば兼常銘作を大量に受注すると、その製作を兼常以外の鍛冶達にも振り分け、各工の手で兼常銘まで切らせて納品させたという。
そのため「常」の最終画を長々と伸ばすという象徴的な通例に従っていても、様々な兼常銘作が存在しているのはそれだけの同名工が居たのではなく、実態は相当数の代銘作が混在しているからに他ならないということである。
通常、代銘代作とは高齢化や体調不良などを理由に師弟・一門間で行われるものであり、しかも入念作で刻銘も雰囲気の近いものが多い。
しかし末関の場合はそうした例ばかりではなく、資料7のように兼㝎(ノサダ)が代銘したと思われる兼綱銘の入念作もあれば、いわゆる数打ちものでも行われているのである。
ところで数打ちものの数とは量産の換言であり、それだけで実用に劣る粗悪品であろうという先入観があるが、東京国立博物館所蔵の変わり塗打刀拵、通称明智拵の中身は大磨り上げをした末関の数打ちものと極められている。
同拵名の由来は明智光秀(光春とも)の指料であったと伝わるが、野戦攻城に明け暮れていた戦国武将ですら命を委ねるほど、末関の数打ちものは信頼がおかれていたのであろう。
また尾張藩士の近松茂矩が編輯した『昔咄』(注9)によれば、新陰流第六世でもあった尾張徳川家二代藩主光友公は正宗、貞宗など数多な名刀を差し置いて、兼有の中脇指を終生ただ一腰の腰差にしたとあるが、同刀も大物切れ(注10)の下作刀を大磨り上げにしたものという。
俗に美濃刀は折れず曲がらずよく斬れると云われるが、これは技巧に走らず機能実用を重視した刀工作ならば当然のことであり、何も美濃刀だけに限ったことではない筈である。
それが美濃の場合は数打ちものであっても遜色なかったので驍名を馳せたのであり、例え他人の銘で打ったものでも実用を忽せにせず、かつ変わり銘で当人作ではないことをアピールしたのではと推量するが、その反面末関の代別研究が今日に至るまで進まない要因ともなっており、便宜的に別人兼〇、後代兼□といった整理をされたものが何と多いことであろうか。
勿論全てがそうとは言い切れないものの、鏡像文字や逆向きの列火状鏨運びにそうした意図があると考えているが、逆向き以外にも変わり字を刻したものは資料8のように多種に渡っており、その無秩序さは私体字と化しているものもある。
これらの多くは冒頭に記した通り型通りの作風で卓抜したものではないが、衒いの無い鄙びた銘振りに風情を覚えるのは筆者一人だけではないと思う。
終わりに
筆者はかつて「美濃刀刻銘の誇張筆画について」という小論を刀剣美術726号に投稿した際に、鑑定という視点から離れ、つぶさに銘振りを観察した。
その結果たしかに美濃鍛冶には能筆家が少なく、稚拙な印象を受ける筆跡も多い。
しかしそれを以て文盲、無教養と決めつけ、蔑視するのは美濃鍛冶に対する偏見がある。
兼㝎にしても加齢とともに悪筆が進行するが、それと教養、技倆は関係なく、二字銘作より和泉守受領銘作が入念作というわけでもない。
僅か二文字ではあるが、そこに自分の事績といえるものを世に残そうとした末関諸工の自己顕示を強く感じている次第である。
なお本稿を執筆するに当たり以下の方々からご指導、ご協力を得られました。誌面を拝借し御礼申し上げます。
加地宣一氏(故人) 加納友道氏(故人) 近藤邦治氏 鈴木卓夫氏 堀江登志実氏
注1 転折を角張らせず丸みを持たせる用筆。
注2 起筆や収筆の形が角張った線で書かれた書風。
注3 連火(れんが)とも。火部の部首であり、熱や照、煮など専ら火に由来する文字を構成している。
注4 魚は象形文字であるので、収筆は列火ではない。
注5 真体の文字の意。漢字を楷書で書くこと、またはその書体。
注6 『南島偉功傳 鐵砲記』明治三十二年、西村時彦著
注7 筑前の金剛兵衛清貞とする異説がある。
注8 第百十三代天皇、在位期間貞享四年~宝永六年。
注9 尾張徳川家初代から四代藩主の行状記。刊年不明。
注10 斬れ味が極めて優れること。斬れ味良くとも下作という評価に変わりはない。
参考図書
『書學階梯』入澤賢治氏著
『漢字の形音義』岡井愼吾氏著
『日本刀大百科事典』福永酔剣氏著
『打刀拵』東京国立博物館編
『刀剣美術第三九八号―室町時代における美濃刀工の系譜』鈴木卓夫氏著
『日本刀押形展』近藤邦治氏編 三河武士のやかた家康館発行