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論文「薬王寺派刀工について」


歴代足利氏が守護職を務め徳川家の発祥地として知られる
中世三河国(愛知県東部)には傑出した鍛冶群の輩出を見ず、
僅かに碧海郡矢作(やはぎ。現、岡崎市内)を中心に活動した
薬王寺派刀工等が銘鑑上にその名を残している程度である。

従ってその研究となると今日に至るまで詳らかな成果が無く、
多くの刀剣書もその作風をして末関風であるとの主張を繰り
返すばかりに留まっている。これは同派から卓越した名工が
出現していない事のほか現存史料、就中個銘や年紀を有する
作刀例の極めて少ないことが大きな要因と云えるが、単に
研究が遅れているのみならず謎に覆い尽くされて殆ど解明
出来ていないと云うのが実態でもある。本稿ではそうした謎に
若干の推考を試みるとともに現存する史料の中から代表作例を
紹介し、従前殆ど振り返られる事が無かった地方鍛冶の足跡を
披見に供したい。



一.薬王寺についての疑問(謎に包まれた一派)

「薬王寺」の名称は行基菩薩(六六八〜七四九)が開基した
と云う同名の私寺に由来するものと伝わるが、同寺院についての
中世文献史料は殆ど滅失しており、唯一確実な資料としては
長元三年(一〇三〇)編纂の『本朝文粋』に収められた陰陽家・
文人慶滋保胤(よししげのやすたね)作の漢文詩に次の一章を
見るばかりと云う。

晩秋過参州薬王寺有感 慶保胤
参河州碧海郡有一道場、日薬王寺、行基菩薩昔所建立也、
聖跡雖旧、風物惟新、前有碧瑠璃之水、後有黄纐纈之林、
有草堂、有茅屋、有経蔵、有鐘楼、有茶園、有薬圃、有僧在中、
白眉颯爾、余是羇旅之卒、牛馬之走、初尋寺次逢僧、庭前徘徊、
燈下談話、耳目所感、聊記斯文云爾

是に因れば平安中期には薬王寺の存在が確認されており、
寺内に「草堂」「茅屋」「経蔵」「鐘楼」「茶園」「茶圃」を備えて
いた伽藍の様子が伺われる。

行基菩薩作の薬師仏を本尊とし霊薬五香湯を調じて上下の
信仰厚い名刹であったが建武二年(一三三五)新田義貞と
高師泰が対戦した矢作川合戦の兵火に焼亡したと云い、
岡崎市北本郷神明社蔵の「重代記録(天正十五年改寫)」に
よれば“鷲取卿御尊宅之跡へ薬王寺ヲ引改、即蓮華寺ト称ス”と
有って岡崎市西本郷町地内の蓮華寺が同寺の後身と考えられて
いる。

然し乍ら、その蓮華寺々伝には享禄二年(一五二九)寺跡の
南に堂宇を再建し蓮華寺と改称したとあり、罹災から二百年を
経た後に新興宗派曹洞宗が建立した蓮華寺を薬王寺寺院の
再興と呼べるものでは無い。

従って薬王寺を名乗っていた刀工群が同名の有力寺院に伺候
していた集団であったとするならば少なくとも南北朝期を遡る
歴史を有していることになるが、そのような文献・作例は勿論
のこと巷説すらも伝わってはいない。

又、当時の蓮華寺が同寺前身名の薬王寺を別号(例:教王
護国寺の旧名・通称を東寺と云うように)としていたと云う
推論に対しては享禄二年の再建年を遡る作刀記録が確認
されており、その成立時点に時差があって名乗りの由来とは
なり得ない。

このような不審は系図の上にも現れており『古刀銘尽大全』
『本朝鍛冶考』『校正古刀銘鑑』では隣国美濃の兼春が
応永頃に三河へ移住し同派の開祖となったとある系図(図1
とともに備前三郎国宗の裔、中原国盛を開祖とする別系図
図2)をも併載しており、美濃系と備前系異なる二流が夫々に
薬王寺を称していたかのようである。

こうした特異な例は地名に由来するか通説通り薬王寺寺院が
媒体となって成立することであるが、逆に云えばこの二系図が
あるからこそ中世に薬王寺寺院が存在していたと妄信させる
ところは無かったのだろうか。

勿論実証研究が進んだ今日においては文正二年(一四六七)
紀作を現存最古とする兼春が応永までも遡るには無理があり、
中原国宗が備前三郎国宗の三河国中原駐鎚銘にして中原
平三郎と称した国盛がその末裔であると云う伝承も中原が
国宗の姓氏であって矢作の地名を意味しないとすることが
ほぼ定説化しており中原国盛の国宗後裔説には説得力が
乏しい。 (一部研究家の間では三河に中原なる古邑は
無かったとして三河地名説をも退けているが、岡崎史によれば
いにしえの矢作に実在した古字であり、明治初期、宇頭町
地内楮(ろくえ)と楮山(ろくえやま)の内に合併統合されて
消滅している)

さらに国盛系の刀工には国綱―国吉―吉光―吉則と、まるで
山城鍛冶の名門に倣ったような名前が続いており、その支流
にも左安吉の子と同名の左貞吉や大原真守を捻ったかの
ような小原真守なる刀工名が連ねてあって同系図の信憑性
には素直に首肯し難い或る種の作為が感じられる。

或いは事実そのような刀工銘であったとしたのならその多くは
偽物として淘汰されてきたことも想像するに難く無く、現存史料が
殆ど残されていない要因であるのかもしれないが、偶さかに
管見するこれらの在銘作も一様にして信頼に足りるものに
恵まれず、国盛系に関する訝しさを一層募らせている。

然し何れにしても時代を吊り上げてなお応永期が始点とされる
彼等の位置づけについて千手院・当麻等の刀銘に代表される
候人鍛冶とは同列視出来るものではなく、月山のような聖地・
霊域に対する畏敬や追慕の類とも様相が異なり、同派が
「薬王寺」を刻銘していた事情や背景は杳として不明の状態に
ある。

さらに彼等薬王寺派の刀工はその活動基盤を中世都市矢作宿に
専ら依存していたのであるが、天正十八年(一五九〇)に岡崎へ
入部した田中吉政の城下町建設とその後に入部した本多康重の
城下町整備により矢作宿から岡崎城下町への政策的な職人・
商人の集住がなされているのに対しても単り薬王寺派刀工のみは
移住を実証するものが全く無く、それに替って兼房・兼辰・兼有・
兼継等と云った「兼」を通字とする関系新興鍛冶の台頭が見られる
ようになってくる。

これは乱世の終結がもたらした社会変化・新旧勢力の交替と捉えて
支障無いように思われる。然し戦国の覇者徳川氏由縁の地を活動
の場としていながらその成り立ちから終焉に至るまでの消息は皆目
不明であり、殊に三河武士団にとっては身近な地元刀であったにも
拘わらず、これを佩刀・指料とした記録が文献上のものを含めても
未だ見当たっていない。こうした意外な事実や前述した幾つかの
謎を前にして、歴史の片隅に追いやられたかのような同派の研究は
隘路から脱せないまま今日に至っている。



二.代表史料について

このように謎に包まれた一派であるが数少ない現存刀の内から
代表作例と思われるものを研究史料も取り混ぜて以下に紹介
したい。

【押形1】
  脇指 銘 藥王寺

        刃長 一尺九寸六分  反り 三分九厘
        元幅 九分八厘  重ね 二分三厘

平造り、庵棟、ふくら枯れてすすどしく先反りついた片手打ち姿。
鍛は大板目肌よく練れてゆったりと流れる。刃文匂い口沈み加減の
尖り互の目を主調に小互の目交え、連れごころあり、よく沸づいて
起伏激しく、刃中に砂流しと鈍い沸筋が頻りに掛かり、少しバサケも
あって飛焼を交える。
帽子乱れ込んで先掃掛け、葉を交えて火焔となり、返り小互の目を
断続しながら長く焼き、棟焼に繋がる。
茎僅かに区を送り、先刃上り栗尻、鑢目浅く殆ど切りに近い
勝手下り。
茎棟極く僅かに肉付く。

この片手打は土佐山内家に伝来したと云い『今村押形』にも所載
された佳品である。同派には珍しくも激しく乱れた焼を見せているが
表裏揃ったところは無く、造込みも異風である。又、棟焼が頻りに
掛かった景色は末相州或いは島田物などを想起させる。

【押形2】
  刀 銘 藥王寺

       刃長 二尺二寸九分  反り 八分半  
       元幅 九分九厘  重ね 二分弱

鎬造り、庵棟、鎬高く、深く反って先反り加わる。
鍛は板目肌立って流れ地沸つく。
刃文小沸出来の直刃、足よく入り、刃淵ほつれ、細やかな
砂流し、喰い違い刃掛かり、指裏物打ちに二重刃掛かる。
帽子研ぎ細り潤み加減に直ぐ、指し表には火焔風の沸が零れる。
茎生ぶ、棟角、先刃上り栗尻、鑢目は桧垣、棟鑢筋違。

「藥」は行書、「王」は楷書、「寺」は異体字風に崩した変り銘の
作例であるがこの訥々とした銘振りは後に触れる『光山押形』に
所載の薬王寺大友助吉に近似した雰囲気がある。薬王寺刀の
多くは本作の如く個銘を記さず単に“薬王寺”とのみ刻すと
云われる。

【押形3】
  刀 銘 表 三州藥王寺 主真助  
       裏 文龜二年八月日
       刃長 二尺二寸八分  反り 六分七厘  
       元幅 一寸二厘  重ね 二分二厘

鎬造り、丸棟、鎬やや高く腰反り加減。
鍛は板目肌流れ、鎬柾となって区下より水影状に白け立つ。
刃文匂い口沈み加減の直刃調に浅い湾れと小互の目交え、
小沸づき、小足入り、中程荒めに深く沸づく。
帽子浅く湾れて焼き詰め風、裏は盛んに掃掛ける。
茎は生ぶながら若干の区を送り、丈短く反り付いて先刃上り栗尻、
茎棟角、鑢目鎬地を浅い勝手下り、平地は大筋違。

本刀は彼らの活動期間を確認し得る貴重な年紀を記しているが、
本作に刻された文亀二年(一五〇二)は薬王寺を再建して
蓮華寺と改めたと云う享禄二年から二十二年を遡っており、
薬王寺を蓮華寺の別名と捉える向きについては一応の否定を
下す史料根拠ともなっている。

珍しくも注文打ちであり、所持者名の前を書札礼に基づいて
闕如(けつじょ)(一字分の空白)とする敬意の姿勢は示しているが
苗字を省いて書き下す刻銘は『光山押形』に収録の「波平久行作
主克久」(但し闕如無し)ほか僅かな類例を見るばかりで希有な
事例と思われる。

尚、本作に見る独特の茎仕立(片筋違)は相州広正・島田伝助
などに極く稀に見受けられる例外を除いては美濃千手院派の
特徴とする特異な形態であるが、西三河に隣接する美濃中南部
には美濃千手院の分派と云われ同様な茎仕立を時折見せる
坂倉関(代表工正利)があり彼我の技術交流は思量の根拠を
有しないものの支障なく往還できた距離関係に位置している。

【押形4】
  刀 銘 助良
       刃長 二尺一寸四分  反り 四分三厘
       元幅 九分半  重ね 一分八厘

鎬造り、庵棟、重ねやや薄く鎬高い。
鍛は板目肌杢交えて肌立ち、鎬地柾掛り、鎬寄り高く映りごころ
あり。
刃文匂い口沈んだ直刃調に浅い湾れと小互の目交え、些少に
小沸づいてさかんにほつれ、喰い違い刃、打ちのけ掛かり、
物打ちより上の焼き眠い。
帽子沸づいて直ぐに先中丸風の焼詰、裏は湾れごころに先焼き
詰め、二重刃風の沸掛かる。
茎摺り上げて先刃上り栗尻、原鑢鎬地を筋違、平地切とし鎬筋
よく通る。

本工にも片筋違鑢が見受けられる。この助良と名乗る刀工は
全く銘振りを同じくする作例が『刀剣銘字大鑑 原拓土屋押形』に
紹介されており、これを薬王寺とする先学の意見を今暫くは
尊重したいと思うが、薬王寺又は三河住人銘の併記された作例を
未だ経眼しておらず、銘鑑中の美濃西郡鍛冶にも同名が見られる
ところから同一人による移動があったのか、或いは何れかの誤謬で
あるのか今後の研究・新史料の出現が俟たれるところである。


【押形5】
  短刀 銘 助良

        刃長 九寸九分  反り 一分六厘  
        元幅 九分七厘  棟重ね 七厘  鎬重ね 二分一厘

鎬筋が棟に抜けた菖蒲造り。庵棟。身幅広く先反り付く。
鍛板目に杢交えて肌立ち、刃寄り流れて白けごころあり、鎬寄りに
映り現れる。
刃文直刃に表裏揃った腰刃を焼き、小沸よくついて盛んに砂流し
沸筋掛かる。
帽子焼き深く先小丸に掃き掛けて長く返る。
茎生ぶ、丈やや短めに先細ってタナゴ腹となる。棟角、先刃上り
栗尻、鑢目鎬地筋違、平地切りの所謂片筋違。

千子風の出来であるが彼我の交流については確認できない。
西郡鍛冶の寿命にも村正そのままに酷似した作例があり、東海
地方に一過性の流行があったのだろうか。

【押形6】
  刀 銘 三州藥王寺助次
       刃長 二尺四寸二分  反り 七分九厘
       元幅 一寸強  重ね 二分

鎬造り、低い庵棟、反り深く先反りつき、平肉落ちてやや鎬高。
鍛は板目肌つみ、総体に流れて白け、刃寄りに低く白け映り立つ。
刃文匂い口沈み加減の直刃調、小沸付き刃淵に添って沸筋絡み、
ほつれ、打ちのけ交え小足入る。帽子は表湾れ込み駆け出し気味に
突き上げて掃掛ける。裏浅く湾れ、先潤み加減。
茎生ぶ、先刃上り栗尻、茎棟中丸、刃方区より中程までを摺り鑢目
細鑢にて桧垣を無造作に掛ける。

【押形7】
  刀 銘 三州藥王寺助次作
       刃長 二尺三寸六分  反り 六分九厘  
       元幅 九分四厘  重ね 一分七厘

鎬造り、庵棟、鎬高く、先反りつく。
鍛は板目肌つみ、総体に流れて白ける。刃文匂い口沈み加減の
直刃調、小沸付き刃淵に添って沸筋絡み、ほつれ、打ちのけ交え
小足入る。
帽子は表尖り刃を一つ焼き先掃掛ける。裏浅く湾れて、先掃掛け、
返り断続しながらやや長く焼く。
茎摺上げて先ブツ切り、茎棟小肉、鑢目殆ど切りに近い浅い
勝手下り。目釘穴三、内一つ鉛埋め。

現存する薬王寺中、最も多くの作品を見掛け事実上の祖と云われる
のがこの助次である。この刀工には薬王寺と個銘を併記する作例が
多く、その個性ある鏨運びから薬王寺銘だけの作品【押形8】中にも
彼の鏨跡と判るものが見受けられる。

系図及び伝承では関兼春の子にして時代正長頃とあるが、その
作域からは室町末期を遡るものとは思えないもので『日本刀工
辞典古刀編(藤代義雄・松雄氏編)』中にある時代天文頃の見解は
相応であり、代を重ねていなければ時代の吊り上げかと思われる。
然し本工を境に後へと続く時代相の作例が見当たらず、同派の
始祖と云うよりは掉尾を飾ったかに思われる。

【押形8】
  刀 銘 藥王寺
       刃長 二尺三寸二分  反り 三分九厘
       元幅 九分七厘  重ね 一分九厘

鎬造り、庵棟、反り浅く鎬やや高い。
彫物表香箸、裏腰樋を掻き流す。
鍛大板目流れてやや肌立ち、白け映り立つ。
刃文互の目に鋭い尖り刃交えてこづみ、小沸づき、足入り、砂流し、
沸筋盛んに掛かり、表裏とも区上は焼きうるみ煙り込む。
帽子表突き上げて尖り、掃掛けて返り倒れる、裏は小丸。
茎生ぶ、浅く反って先深い刃上り栗尻、棟中丸、鑢目桧垣。

【押形9】
  短刀 銘 江州蒲生(がもう)住助長
        刃長 七寸強  反り無し  
        元幅 六分半  重ね 一分八厘

平造り、庵棟、重ね元来は厚く、今は棟側を削いで平肉付く頃合姿。
鍛表柾目、裏板目に小杢交えて流れ、地沸ついて肌立つ。
刃文小沸出来の直刃調に浅い湾れ交え、二重刃、小足交えて
金筋掛かり、裏は一段と沸強く匂い深い。
帽子僅かに弛みごころあって先角張り、食い違い刃が二重刃風と
なって返る。
茎生ぶ、棟角、先刃上り栗尻、鑢目筋違。

この助長は助次の弟子または子と比定されており、多くの刀剣書は
三河から近江へ移住したものと紹介している。然し『光山押形』に
明応八年八月紀の刀絵図が所載されており、これが確かならば
現存作から天文頃とされる前掲の助次とは師弟の活動期間が
前後することとなり同工の三河出自説には慎重な立場を取らねば
ならない。

【押形10】
  短刀 銘 表 奉能御剣宗之茉師武運長久息災所也  
        裏 三州左竹茉王寺久原住人貞吉作 次 花押
        棟 永正九甲辰年二月十一口(吉)日
        刃長 一尺強  反り僅か
        元幅 九分三厘  重ね 三分半

平造り、重ね至って厚く、三ツ棟が先に行って庵棟へと変化する。
彫物表裏とも刀樋を掻流す。
鍛小板目流れごころに地沸つき、指し表腰元に若干の異鉄露呈し、
上半映り立つ。
刃文小沸出来の中直刃、僅かに湾れ調、物打ちから中程まで
荒めの沸絡む。
帽子弛みごころに表深く返り互の目で止める、裏は短く返り
倒れ気味。
茎生ぶ、平肉ついて刃方へ俯き、先刃上り栗尻、鑢目勝手下り、
刃方下半を摺り、棟は区際を摺って角、以下小肉、刻銘に誤字
欠画が目立つ。

本刀は嘉永二年刊行の『校正古今鍛冶銘早見出(尾関永冨撰)』
にその銘文が収録され『日本刀大鑑』でも薬王寺の代表作として
取り上げられている有名史料であるが年紀と干支が合致しない
ため(永正九年〈一五一二〉は壬申)史料としての信頼性に疑問を
投じる向きも多い。

また岡崎市宇頭北町の薬王寺(近世建立の同名別寺〈浄土宗〉)
には本工の位牌(資料1)とされるものが詳細不明のまま伝わって
いるが“観照貞實居士 文正元丙戌年(一四六六)六月二三日
(裏)久原住貞吉”と記されたこの位牌は近世前期の形式で、
誌されている時代にそぐわないとの指摘もあり、これもまた郷土史
の解明を徒に悩ませている不可解な史料でもあるが何れも簡単に
捏造されたものとして切り捨ててよいものか思案に暮れるところで
ある。



三.仮説と推量                              

序章で取り上げた幾つかの謎について是までのところ格別見出
された知見は無いが、別史料に基づいた新たな可能性を提唱し
視点を違えた考察を本稿にて試みたい。

そしてその手掛かりとなるのが『光山押形(本阿弥光山編)』の
中に茎絵形が所載されている薬王寺大友助土(吉)(図3)である。

この大友とは岡崎市矢作地区内の地名でもあるが文化・文政頃の
郷土史『参河聡視録矢矧村記二(加茂久算著)』によれば矢作
西宿内(矢作川を挟んだ東西の宿駅の内、西側を指す)には
甲冑・刀剣の製作集団である大友鍛冶があって天正・慶長年間
まで製作活動を続け、その兜は矢矧鉢と称され宅祉の水田からは
鉄屑が多く出ると伝わっている。

彼等もまた矢作来住の年代は未だ確定されていないが同押形に
信頼をおくならばこの銘文はその伝承を裏付ける史料であり、
大友鍛冶が薬王寺派刀工集団を構成した一員と見ることも出来る。

そして更に推考を進めるならば或いはこの大友鍛冶こそが薬王寺
鍛冶の中核を占める存在であって矢作宿の衰退とともに本来の
甲冑師に専業化、又は他業種鍛冶へ転向したのではないだろうか。

一般的に中世の鍛冶座は製造から販売までの統括だけに留まらず
諸役免除や関所自由通行権などの特権を有していたものもあったと
云い、時の為政者からこれを安堵する朱印状が発行されることも
あったように家職堅守の概念は強固であり、鍛冶名の名乗りに
ついては特に厳格な掟をもって各座とも臨んでいる。

従って甲冑師が作刀を手掛けると云うことは本職、つまり鍛冶座の
独占職域を侵すことに他ならぬことであり、彼ら鍛冶座に対しての
配慮、或いは黙認を得る為の糊塗手段として廃絶し実態の無い
云はば幽霊寺院名を冠し、幻の承仕法師(寺社の俗事に携わる
僧形の者)を騙ったのではと推考する。

さらに単に薬王寺と刻すばかりで個銘を記した作例が少ないと
される理由についても室町末期までの甲冑師には個銘を記す
慣習が無かったと云う定説に加え、候人鍛冶作を装い市場流通を
自主規制、若しくは抑制されていたのではないだろうか。

それ故その需要者は前述した【押形3】のように注文主の苗字を
省くような特定の階層、又は同族などの狭い範囲内だけであり、
これらが三河武士団の所用記録に乏しい所以と考えたい。

大友鍛冶は甲冑史の中でも明確に捉えられている存在では無く
『参河聡視録矢矧村記二』の記述に頼るばかりである。
従って研究途上史料に基づいた派生意見など只の噴飯論と一笑に
附されれば反駁出来るだけの実証理論に欠けているが、甲冑師が
本業以外の鍛冶製品も手掛けた例を他に求めるとするならば
虎徹の出身母体である長曽祢一族の名が挙げられ、『長曽祢乕徹
新考(小笠原信夫氏著)』によれば彼等が鐔、鎖鎌から馬具、錠前、
鈴、釘類に至るまであらゆる鍛冶全般を手掛けていた技能集団で
あったことが紹介されている。

又、『長曾禰虎徹の研究(杉原祥造氏著)』においては虎徹の出府
理由を“従来副業の観ありし鍛刀を正業と為さむとせしに”とし、
彼が甲冑師時代既に余技として鍛刀も手掛けていたことを示唆
されているが、それを実証する史料の有無は別として転身後の
目覚ましさから察するにそうした下地があったとしても不思議無い
ように思われる。

さらに甲冑師以外の雑器鍛冶が作刀に携わったと思われる
例として刀美325号誌上で研究寄稿あった上森岱乗氏の
『慶長・京中鍛冶銘集と徳川軍団の鍛冶軍役・伊賀守金道』を
挙げてみたい。

同氏は慶長十九年大坂夏の陣を前に家康より百日の間に
刀千振りの納品を受命した伊賀守金道が諸国の鍛冶を召集指図
した際の記録である『慶長・京中鍛冶銘集』の中に十名の
「かみそりかち」が記録されていることを指摘され緊急事態を前に
刀工以外(一名の 「小刀かち」を含む)の臨時動員があった旨を
興味ある史料として発表されている。

また江戸期を通じて岡崎宿の名産品であった小刀(こがたな)の
兼有にも僅か一振りではあるが初代甚太郎の手になる作例が
井田町持法院の寺宝として現存する。

【押形11】
  脇指 銘 三州住藤原兼有
      刃長 一尺八寸二分  反り 五分弱
      元幅 一寸強  重ね 二分三厘

鎬造り、庵棟、反りやや深く、重ね厚め。
鍛小板目精良につみ、幽かな白け映り立つ。
刃文は下半匂出来、間遠な尖り互の目に小互の目交え足よく入る。
上半は沸基調となり草に乱れ、荒沸が連れて尖り、島刃状に凝る。
裏は直刃調に湾れごころ加わり刃淵バサケて沸筋長く絡む。
帽子浅く湾れて先小丸、裏は焼き深く中丸、返り長く、途切れて
棟焼きとなる。
茎生ぶ、刃区棟区深く、先刃上り栗尻、棟角、刃方は肉厚く角。
鑢目勝手下り。

同工はその出身地である関において室屋派と称される刀工群の
中に同じ鍛冶名が見られるので或いは同派の流れを汲み鍛刀の
心得があったのかもしれないが慶長二年に兼景藤三郎が記した
寄合帳『関鍛冶惣連名』には該当俗名を見ず、やはり専門の
小刀鍛冶であったものと思われる。
尚、此の兼有刀は代々分家の太郎右衛門家に伝わっていたもの
であり在銘であるのは自家用、つまり非売品であったためである。

以上僅かな例ではあるが正規の刀工以外による作刀も決して
稀有なことではなかったことが窺い知れ、薬王寺刀が甲冑師の
副業であったと云う推量に期待を繋ぐ事例としたいが、それと
ともに世に在る無銘下手作の中にはこうした鍛冶座の目こぼしに
預かった雑器鍛冶の手によるものも多いとみて差し支えない
のではなかろうか。

最後に薬王寺派の作風について若干言及してみたい。冒頭にも
記した通り、多くの刀剣書は同派の作域を末関風と紹介している。

確かに細部においては尖り互の目を主調にして末関に見紛う
作例も若干数現存しているが、これまでの史料を通観した限り
概ねは直調でやや古風に見える作域を中心とし、総体的には
大和気質を感じさせるものが多い。

本稿ではそれらの全てを紹介しきれないことに加え今後新たな
資料の発見が嵩なれば従来説通りであるやも知れず軽々しい
断定は差し控えたいが、以上の作風をも広義的には末関の
範疇にあると括ってしまうのは慎重な研究成果と云うよりも
関兼春始祖説に基づいた既成概念かと思われ、一般的な通念
としてある末関風とは少なからぬ乖離があるのではと感じている。

本件に限らず地方鍛冶の研究に際して他書からの引用を重ねた
だけの刀剣書に基準を求めることは多くの弊害を孕んでおり、
早晩に改訂の必要を感じるが、実証史料の蒐集・分析についても
傍物とは云いながら信頼のおける史料は希有であり、一朝に進展
しないもどかしさを痛感している次第である。

従って不備多き小論ながら本稿により新史料の発見が誘発され、
僅かなりとも三河刀研究の進展に繋がることがあれば幸甚に思う。

尚、本稿を執筆するに際しては岡崎市美術博物館の堀江登志実
学芸係長より三河郷土史についての御指導を、岡崎市と東京都
支部の名倉敬世氏並びに滋賀県在住会員の小暮f一氏、今は故人と
なられた斉藤武男氏からは貴重な資料の提供・押形採択にご協力
ありました。本誌面を借りて御礼を申し上げます。

                      文責 近藤邦治(岐阜県支部)

本稿中の未公表参考文献

【自治体史】
新編岡崎市史第2・3巻  新編岡崎市史編纂委員会

【史料】
古今鍛冶備考  山田浅右衛門
貞丈雑記3  伊勢貞丈
美濃刀大鑑  刀剣研究連合会
駿遠豆三州刀工の研究  (財)日本美術刀剣保存協会静岡県支部
日本の美術137刀剣(大和と美濃) 小笠原信夫氏
新甲冑師銘鑑  笹間良彦氏

【論著】
研究紀要「美濃千手院に関する考察」 (財)日本美術刀剣保存協会
備前刀研究特集号「中原國宗の一考察」 備前刀學會