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 第6回定例研究会
 
 令和3年3月27日(土)岐阜市茜部公民館にて、公益財団法人日本美術刀剣保存協会学芸部、石井彰課長に講師としてお越しいただき、第6回定例研究会を開催いたしました。
 
  1号刀  太刀 銘 保弘
 腰元に踏ん張りがあり、生であることは確かです。
 姿を見て、先に行っても反りが下半の反りの延長線上に自然についていますので、姿的には少なくとも鎌倉中期以降というふうに見ていただきたいです。 また明瞭な乱れ映りがたっていますので、例えば山城であるとか九州の白け映りとかそういうものではなく備前の乱れ映りと見るべきです。 焼き刃は一文字のような丁字乱れではないですけども、よく言われる乱れの頭がムックリしたような若干丁字がかった互の目というか、それを主体とした焼き刃で構成されている。中ほどは幾分高めで物打ちにいたってちょっと焼きを低めにして殆ど直刃で出入りもなくなる。長光の中期とか若干後期にかけての長船長光の焼き刃の構成を示しているので、長船長光と御覧いただきたい。帽子もですね、特に佩表、ふくらの線に沿ってではなくてまっすぐに帽子の先端にむかって帽子が立ち上がっていますので三作風の帽子を示している所も長船の長光だったりに持っていける所だなと思います。
 
 中には景光という札もあったんですね。位取りとしては申し分ないんですけども景光であればやはり角がかった互の目。純然たる片落ちとまでは言わないんですけども、角がかった互の目、逆足が入ってくる所ですね。そういった所で同然とはいっても様式的には異なるのかなと思います。
 同然ということで言えば光忠の札もあったのですが、光忠でやはりこの手の刃文というのはまず無いかなと。通常やはり腰のぐっと括れた蛙子丁字、華やかな蛙子丁字を主体とした出入りのある、より出入りのある刃文。光忠の初期の作風という風に言われている古備前調の、小乱れ調の焼きもあったりとかして結構作域が広いんですけども、この手の焼き刃というのは光忠にはまず見られませんので、同然といえども再考を要するのかなと思いました。
 友成とか時代を上げた札もあったんですけども、藤末鎌初の姿となるともう少し上半の反りが浅くなって俯き加減になる所、姿的には違うのかなと。焼き刃もやはりより古調な小乱れを主体とした刃文になってきますので、元先の幅差が比較的ついているので優美とはいってもその辺の違いがあるというふうに思います。
 
 この刀工は在銘数が非常に少ないです。これと重要刀剣に2~3振りあります。それと重要美術品に認定されているものが2振りあります。それはどちらも俗名があって左兵衛尉と右近将監という俗名が切られています。
 長銘で備前國長船住、長船住人と長船鍛冶であることは間違いない。年紀も重美のだと嘉元、西暦で言うと1300年をちょっと超えたあたりの年代のもの。長光の比較で言うと長光の後期あたりの時代。年代的には真光と同年代の刀工と言えると思います。 俗名がついて長舩住人という銘があることからですね、長舩鍛冶であることは間違いないんですけども、嫡流というか嫡流を陰で支える刀工の一人だったのではないかなという風に思います。若干区は送ってますが殆ど生ぶで、お尻も摘まんでない。そういう意味では姿の勉強になりますし、造りこみも非常に参考になります。
 鎌倉の後期の備前の茎の整形というのは素直に先細りになるのではなくて若干寸胴型になるというかタナゴ腹というふうなところまではいかないんですけども、時折見るこの茎の形、これも後で御覧いただければなと思います。
 2号刀 刀 銘 藤原廣實
 
 大体一の札、二の札で國廣と入っておりました。
 ざらついた様な精良さに欠ける地鉄、これは本当によく堀川肌と言われますけども、堀川派の比較的多くみられる地鉄、肌たち具合、鉄の構成、板目に杢を交えた肌目の様相を示していると言えます。これが堀川物によくみられる肌の塩梅なので覚えていただきたいと思います。 堀川のとくに焼きの低い相州上工を狙った作の特徴としていえるのは、比較的匂い幅が広めのところと匂い口がすっとしまった所に変化があるところです。 沸づきの強弱とか大小とかそういった所に比較的変化があって働きがある。悪く言えばムラがあるというんでしょうか、良く言えば変化によって富んでいるというんですけども。そうした意味では新刀然としたものというよりも比較的古色のあるものが、この堀川の古い相州刀工を狙ったものには多いと思います。
 
 廣實という個銘は、そもそも在銘作は少ないですし廣實でないといけないということはございませんので、國廣と御覧いただければ結構かなと思います。 この刀工の作は数えるほどしかないです。重要刀剣に数振り、この前保存審査に薙刀がでてきましたね。それでも十指に足りないぐらいの数しか確認できない刀工です。一部に言われていますけども、國廣の廣の字を使っているということと、堀川派のですね日州の日向時代の実という通字としているので堀川派の中でも古参の弟子もしくは近親者、近しい鍛冶だったのではないかなという風に思います。 このひと振りをみても相当な技量があったことが伺えますので國廣の代作とか、そういう任についてですね、あまり自身銘を切った作例はないのかなと思います。 藤代松雄先生なんかは、藤原の字と國廣の藤原の字が非常に似ているケースがあるんですね、大隅掾正弘の藤原という字とも非常に近似した例があるんですね、そのへん代銘者がいたのかまだまだ研究途上、なにせ数が少なく年紀も皆無ですから、研究対象としては面白い刀工なんですけども、まだ謎に包まれた刀工であるというふうにはいえると思います。 
 余談なんですけども、慶長新刀の時代というのは、区から穴の距離は指三本、新刀は大体指三本と言われますけども、慶長年代のまだ本当に江戸初めの頃は二本半とか非常に短いんです。そういう風にして見ていくとですねこの刀は少し区を送ってるんですね、実際堀川派によくみられる水影も区下から立っていますので本来であるとこのぐらいの位置にあったんだろうと。そうなってくるとこの樋は十中八九後彫になってくるんですけども、こうしてみると慶長新刀というのは四号刀の伊予掾宗次もそうなんですけども特に寛文新刀と比べて茎が短めのものが多い。國廣もそうですし、肥前の忠吉もそうですよね。寸尺の割には茎の長さが短いものが多い、室町時代の片手打ちの名残がこの時代はあったのかなと思われます。
 3号刀 太刀 銘 表 相州住綱廣 裏 天文十七年戌申二月日
 
 意地悪な出題でなかなか難しい。
 相州綱廣の太刀なんですけども、これを本当に地鉄と直刃の焼き刃だけで辿って考えても中々難しい。綱廣には辿り着かないものだという風に思いますね。 そこでやっぱり造込みとか大事なこの彫物ですね。そういう所で見ていくしかないのかなと思います。
 本作は太刀なんですけども、もうちょっと時代を上げた札もありました。
 鎌倉期の太刀に比べてちょっと先反りが目立つ傾向にあるという、上半の反りの方が比較的鎌倉期のものに比べてついた、強調されたやっぱり姿を示しているという所に若干そういった傾向が伺えるということと、あと特に上半部にいくと重ねの減り方が結構急で、室町のものというのは比較的に短い物など薄くなっていく傾向があるんです。 それとこの三ツ棟ですね。三つ棟の中筋って言いますけども、この一番トップの線が重ねに比べてちょっと鎌倉期のものに比べて細目というか、そういう所もやはり室町の特徴が出てるのかなという風に思います。 それと彫り物ですね、この重ね彫は相州のお家芸というか、特徴とされている所です。 あとこの倶利伽羅のですね、この三鈷の持ち手の所が六角形になってますので、こういう所がやっぱり相州の彫り物の特徴が表れてるというのかなという風に思います。
 いい札だなと思った札として、平安城長吉の札もありました。
 確かにこの平安城長吉にもこういう相州のというか草の倶利伽羅、六角形の持ち手の倶利伽羅を彫り、大体こういった端正な直刃を焼くんですけども、平安城長吉の場合はまずこの重ね彫はなく、単独でこういう草の倶利伽羅は腰元に彫ります。 あとよく言われるのがこの剣とですね龍の胴が交差する所がですね、ちょっと盛り上げるんですね。浅く彫っていかにも立体的にこの見せているという所にやっぱり特徴が出てますので、見方としてはいい札ですけども、そういう所にも違いがあるのかなという風に思います。
 
 また相州は先に行くに従って茎の先が細まっていくんですね。平脇指の寸延びでも大体相州だと先に行って細くなっていく。 本作はこういう太刀を作った場合でも、やっぱり様式に則って先細りを作るという資料的な価値の高いものだと思います。 通常相州綱廣の地鉄というのは大体板杢が比較的目立ったものなんですけども、おそらくこれは最初から直刃を入れることを前提とした鍛え方、鍛錬回数を通常よりも多くやったと思うんですね。この肌目があまり見えない小板目調の肌合い、綺麗な肌合いを示している。おそらく綱廣にとっては入念の一振りだというふうに思います。
 ちなみにこの3号刀は5.15事件で凶弾に倒れた犬養毅の遺愛の一振りというふうに言われています。
 
 4号刀 刀 銘 肥前國住人伊豫掾源宗次
 
 なかなかこの伊予掾宗次を手に取ってみる機会はあんまり皆さんないと思うんですよね。だから名前としては知っていてもという刀工だと思うんです。
 本作は、伊予掾宗次として可もなく不可もない典型的なものの一振りだと思います。
 姿的にはがっちりして身幅がほとんどつかなくて、切先が幾分か伸び心になって反りも浅い、いかにも南北朝時代を磨り上げた姿格好をしています。 慶長新刀の時代、相州色が強い。焼き刃の様式なんですけども、本当にこの伊予掾宗次というのは見ていてもですね、次にどういう刃が来るのかというのが、変化が捉えられないというか、不規則な刃文なんですね。どこかに尖り刃を交えた焼き刃です。 部分的には小模様になったりして、焼きも大体高からず低からずというか、大体平地のあたりの半分くらいの所で前後するものが多いかなと思います。 沸が厚くついて部分的には湯走りとか、飛び焼きとか、棟焼きを交えたりとかですね、そうした相州色が強いもの、不規則な刃文、非常に沸が厚くついています。 あと特徴的なのは帽子です。ここまで強く焼き崩れて掃きかけているというのも伊予掾宗次のまま見られるものです。そういう所を捉えてですね、今後同じような様式のものがでてきたら思い返していただきたいと思います。
 
 中には同じ通りとしてですね、伯耆の正幸の札もありました。同じ相州色で、やっぱり尖り刃を捉えられたんだと思うんですけど、まず薩摩の刀っていうのはあんまりこういう反りが浅いというのはないです。ちょっと時代の上がった主水正正清とか安代とか、その辺りから、おなかを突き出したような感じの下半の反りが強いものが多いですね。
 
 沸ももっとこれよりも、大きく一粒一粒の粒が大きい荒沸がなってきますので、その辺が違うのかなと。あと、ここまで小模様に乱れたものはないです。もう少しこう薩摩刀であれば大味な感じの大模様になってきます。焼き刃の構成様式としても薩摩は避けた方がいいのかなと思います。 
 保弘でもいったんですが、非常にこの茎の棟線が直線的で、結果的にタナゴ腹風に見える非常に特殊な茎の造り込みをしてますね。通常肥前刀というのは指裏に切るんですけど、伊予掾はあくまでも指表に。嫡流は大体藤原を切るに対して、これは源を切っている。 そうした意味では肥前刀の中でも異色の刀工と言えます。 これは初代なんですけども、肥前國をですね、見所としては國の字があって中柱がこう斜めに切るんですね、右のつくりの「う」っていうところが中柱と交差するっていう特徴があります、二代になると國の字の中の中柱がまっすぐになるので交差することがないんですね。三代までいるんですけど、三代は鑢が勝手上がりになるので、その辺で見分けができる、違いがあると言えると思います。
 5号刀 太刀 雲生
 
 これもなかなか難しいお品ではあったのかなと思うのですが、雲生の折り返し銘の太刀になります。
 雲類というのは備前の中でも毛色の違う刀工集団として続けられてるんですけども、備前の他の流派がだいたい吉井川の周辺に位置する集団だったのですが、雲類に限ってはほとんど備中寄りの山深い所に位置する集団だったんです。 だから作風的にも比較的青江の気質のある作例が伺えます。 特にその地鉄がですね、比較的小板目が詰んでいて、肌目が幾分か立ちごころになってますね。青江の縮緬肌風の物がある傾向があります。 あと焼き刃が、ちょっと逆がかるところもです。
 
 時折見られるものとして、特に今回指裏の方に非常にはっきりしたこの地斑映りが鮮明に立ってるんですね。これも備前の中で特に鎌倉期、中期以降の備前には珍しい地斑映りが鮮明に立つというのも雲類の特徴として挙げられます。 
 あともう一つ言えるのは青江気質と共に山城の来気質も比較的この雲類にはあります。 これはちょっと磨り上げてますけども、輪反りになった、反りの均整のとれた輪反りの姿とかですね、あと小板目が非常によく詰んで青江の縮緬肌とは違った、よりこう叩き詰めたような、本当に精良な精緻な地鉄になる。大体この二パターンなんですね。先ほど言ったその明瞭な暗帯部が立つっていう映りなんかはこの手の非常によく詰んだものによく出る傾向にあります。 
 刃文の特徴としては、よく楔を打ち込んだようなと言われる、陰の尖り刃ですね。鋭角に焼き刃の谷の焼き部分が刃先に向かって入り込んだような陰の尖り刃、そういうのがこの太刀には所々に見られますので、そういう特徴がやっぱり出てるという風に思います。 それとあと帽子もですけども、帽子は大体本作のように大丸のものが多いですね。あんまり素直に直ぐに丸というよりも、先端が丸みを帯びるという、そういう所の特徴がこの5号刀にはよく出てるのかなと思います。 
 雲生なんですけども、通常はもう少し直刃、端正な直刃で働きの比較的目立たないおとなしいものが多いんですね。本作はどちらかというと作域的にはむしろ雲次に近い作例の物かなと思います。 
 それと雲生の物は比較的長寸の物が多いです。 塩釜神社さんには三尺位の太刀があったり、在銘の時々資料で見るものは二尺八寸とかそういうものもありますし、この5号刀も折り返してますので元にすれば大体二尺八寸ぐらいあります。 1号刀 刀 銘 表 濃州赤坂住兼元作 裏 享禄元年八月日
 第5回定例研究会
 
 令和3年1月16日(土)岐阜市茜部公民館にて、当支部副支部長、若原利彦氏に講師を務めていただき、第5回定例研究会を開催いたしました。
 
 
        
        第4回定例研究会
         刃長が二尺を少し超えただけの片手打ち姿であるが、身幅がしっかりしていて手持ち具合が良く、実際よりも長寸に錯覚させられる。 
         こうした姿は村正あるいは孫六が得意としたところであり、起伏の激しい尖り刃を焼いていることも、この二工に収斂されていく。 
         しかし村正であるならば、もう少し表裏が揃うか谷底も駆け出しぎみに浅くなる手癖を見つけたいが、そうした顕著な個性がなく鍛えにも美濃気質が強く表れている。 
         また刃文も地を下にして刃を上に見ると、谷底から延びる足先が尖って三本揃うところがあり、真の三本杉であることが見出せるので、兼元と捉えることはさほど難しいことではない。 
         兼元は通称を関の孫六ということで知られているが、住人銘作は赤坂住ばかりであり、関住には時代が下がると思しきものが一振り確認されているだけである。 
         そのため関の孫六と赤坂住兼元は同人移住説、別人説、同族説などさまざまあって、未だ定説化されていないが、関には『関の藤河記』のように不破の関跡周辺地域を指したり、瀬戸から多治見、土岐にかけての一帯で生産される陶器を瀬戸ものと称しているのと同様、美濃一円で打たれた刀を関ものと呼んでいたという記録もあるので、関のという連体修飾語が必ずしも武儀郡の関と決めつけられるものではない。
         
         入札はほとんどの方が兼元に入れられていて結構なことでした。
        
         2号刀  短刀 銘 相州住廣正
         
         やや大振りで少し反りのある姿は南北朝期に紛れるが、身幅は極端に広くなく、先細りに若干の性急さが感じられて重ねも尋常であるところから、室町時代中後期と見ることが出来る。 
         鍛えも板目に杢を交じえ、地沸が付いて肌立っており、様式的には相州伝の地鉄を引き継いでいるが、映りが立つ点にやはり室町色があらわれている。 
         刃文は直刃に低い互の目を交えており、腰元と物打ちに表裏揃った節刃を交えているので、美濃物あるいは千子一派へと結びつけがちである。 
         確かに節刃は美濃の得意とするところであるが、この腰元と物打ちの二カ所に焼くのは廣正の手癖であり、同様な作例はそこそこ見ることができるのでよく覚えておきたい。
        
          3号刀  太刀 銘 延吉
         
         磨り上げられて細身ながら腰反り深く小切先のところから鎌倉末期姿と捉えられる。 
         映りは備前のように乱れておらず、また映りの境目もフェードアウトしており沸映りに近い。 
         刃文は匂い口の締まった直刃を焼いており、帽子も小丸で上品に返っているところから山城ものが候補に挙げられるが、粟田口であれば一段と古雅な姿と地刃になり、来であれば鳥居反りとなる点に違いがある。
         
         一般的に大和ものは柾がかる鍛えと鎬が高く鎬幅が広いという特徴を共有するが、延吉にはそうした大和色の強いものと、備前ものに紛れる華やかな作風の二態があり、従前は同名別人作とされてきたが、研究が進んだ現代では同一工の作域であると分かってきた。 
         また延吉は千手院から龍門荘へ移り住んだ鍛冶といわれ、同時代に活動した千手院派の東大寺延家や千手院吉光などにこうした匂い口の締まった直刃出来を見ることが出来る。 
         本作は直刃を焼きながらも総体的に大和色が弱いので決め手が捉えにくく、つい美濃ものへと入れたくなるが、時代相を見てもう少し古いところ、あるいは美濃と入れてイヤならば本筋の大和へという切替をしていただければ何とかたどり着けるものでした。
         
         入札は善定兼吉と入れられた方が結構おられました。個人的には良い入札だと思います。
        
         4号刀  脇指 銘 表 濃州岐阜住大道 裏 天正十九年二月日
         
         一尺二寸を超す平造脇指は、應永期と桃山期に流行するが、本作は先反りが強く、ふくらも張り加減であるところから桃山期の末古刀と捉えられる。 
         両面に刀樋が彫られているが樋先に鋭さが無く、ここで美濃ものと導かれる。 
         桃山期の美濃ものを代表する鍛冶には大道のほか兼房、氏房、氏貞の四工が挙げられるが、このうち氏貞だけは直刃を焼いたものがほとんど無く、帽子も崩れ加減となるものが多いので本作への入札は避けて頂きたい。
         
         なお本作には大道の個性も顕著に見られないので兼房、氏房については全くの当りとして扱った。 
         大道の住人銘はほとんどが関住であるが、本作は珍しく岐阜住となっており、大道の活動地と活動時期が知れる資料といえる。
        
         5号刀  太刀 表 濃州関住兼房作 裏 永正□年二月日
         
         身幅広く元先の幅差があり、腰反り姿をしているので太刀と分かるが、物打ちの刃筋が少し張っており打刀姿に近い雰囲気がある。 
         ここに手馴れていない様子がうかがわれ、末古刀鍛冶作の太刀と気づいて頂きたい。 
         また身幅の割に軽く感じるところに実戦向きといわれる美濃刀らしさがあり、末関へと誘導される。 
         刃文はいわゆる兼房乱れとは違って奥歯のような互の目を連ね、所々湾曲した尖り刃を交えているが、これをいにしえの人は蟹の手と称しており、初期の兼房の特徴とされてきた。 
          蟹の手は祐定が得意とした腰開き互の目が割れている蟹の爪とは違い、小さな蟹が手を振り上げているような刃文を指す述語であり、この刃文を熟知していれば他に見間違えることはない。 
         本作は永禄年紀がほとんどの兼房の中では40~50年ほど時代が上がる永正年紀があり、資料的価値の高いものであると同時に、稀有な太刀の作例として記憶にとどめて頂きたい。
         
         入札では備前の祐定の札がありましたが、先ほど説明した蟹の手を蟹の爪とみられて入札されたものと思います。今回はそれらの違いを覚えてください。
        
       
 令和2年11月15日(日)岐阜市南部コミュニティーセンターにて、当支部支部長、近藤邦治氏に講師を務めていただき、第4回定例研究会を開催いたしました。
 
  1号刀 寸延短刀 銘 長谷部國信
 本作は大振りで身幅広く、重ねが薄い反りのある南北朝期の姿をしており、刃文は皆焼です。
  南北朝期で皆焼を焼くのは相州の廣光・秋廣、山城の長谷部兄弟が代表工であり、本作の様な極端に重ねの薄いものは長谷部のほかに、備中の青江一派、備後の法華一乗くらいでありますが、これらの作に皆焼は見られません。  長谷部は大和の出身といわれており、地鉄に柾がかったところがあるのが特徴です。本作はその柾がかったところが刃艶で見つけにくいですが、沸の流れている様子を見ますと、  縦方向に流れています。そういったところから鍛えにそって沸がつられていると気付いていただければ、柾がかっていることが分かると思います。  また廣光・秋廣と決定的に違うところは棟焼きが非常に長々と入り、ところによっては刃側より焼き幅が広くなっているところです。廣光・秋廣にこういったものはあまり見られません。なお国重・國信とでは見極めがつきませんので、今回はどちらに入札いただいても正解といたしました。
    長谷部は国重が兄で、國信が弟といわれております。通常兄弟の刀工といいますと、長光と真長、景光と近景のように弟が兄の協力者的立ち位置という場合が多いですが  兄と比べると弟は技倆で一歩譲るとか、現存作数も少ないといった傾向がみられます。  それに対して粟田口六兄弟や、幕末の真雄と清麿などはそういった協力関係になく、各自独立して作刀していたと思われています。  それでは長谷部兄弟がどうであったかというと、作風や技倆、現存作数も伯仲しており、おそらく一緒に行動はしていたと思われるのですが、一つ不思議な点があります。  それは銘の「国・國」の字ですが、兄である国重は国構えの中を「玉」か「王」としています。 現代では「国」の字は正しい字として認められていますが、昔は俗字といわれる世間で通じるものの、正規の字ではないとされていました。 対して弟である國信は正字の「國」を使用していますが、こうしたことは分家が本家に遠慮して俗字を苗字に使用したという昔の慣習に反しますし、赤坂関の兼元一門でも兼基・兼本・兼茂のように、同じカネモトであっても弟子筋は字を変えておりました。 さらには長谷部國信が熱田神宮に参籠して鍛えた脇指が、重要文化財に指定されていますが、これも兄である国重を差し置いて奉納されたものです。  こういったことから個人的な想像ではありますが、兄弟の出生順は別として國信が嫡子、国重が庶子だったのではないかと考えています。  
 2号刀 刀 銘 濃州関住兼㝎作
 
 長さ二尺一寸ほどで、茎も短く、手持ちの良い、いかにも片手打ちといった姿です。
 本作を一目で美濃刀であると見ていただきたいのは樋の形状です。  美濃刀の棒樋の先端は刀樋にならずにミサイルや鉛筆キャップの先端のようになるものが多く、角留めもきっちりとしておりません。 これを換言すれば手馴れていないということになりますが、本作の樋はまさしくそれに当てはまります。  また刃文は頭の丸い互の目に尖り刃を交え、谷底に丸みのある美濃丁字の典型を焼いております。  そのなかで抜群の技量を見せておりますので、ここは素直にノサダに入れていただきたく思います。    兼㝎の作刀期間は文明四年(1472)から大永六年(1526)までの五十四年間に渡ります。そのうち前期の文明四年から明應八年(1499)までの二十八年間はヒキサダ銘を切っています。  そして明應八年からノサダ銘に変わり、そこから永正七年(1510)までの十二年間は「濃州関住兼㝎作」と切り、それ以降大永六年までの十五年間は「和泉守兼㝎」の受領銘を切ります。  本作は銘振りからすると、明應末期ころの円熟期の作と思われます。    ここで一つ、通常改銘というのは殿様などから偏諱を一字いただいて変える場合が多いものです。  兼㝎の場合は二十八年間も「兼定」銘を使用しており、それまでの実績や評価があったであろうと思われますが、さしたる理由もないままそれらをリセットしてしまう「兼㝎」に改銘しています。  この理由を追及した研究成果を知りませんが、現代の刀工は親方の元で修業したのち、独立して工房を持つことが当たり前になっています。  しかし戦国時代の刀工というのは生涯親方の元で働くような職方もいたのではないのでしょうか。 また兼㝎という人は甲州出身説があり、生え抜きの関鍛冶とはいえない面もあります。  これはあくまで個人的な推論ですが、兼㝎という人は兼定工房の一職工であったものの、二十八年間も仕えた(文明四年以前の修業期間は含まれません)ことにより、偶々暖簾分けを許されたのではないのでしょうか。  そして1号刀の解説でしたように、本流との違いを示すため略字として「兼㝎」を使うことを許されたのではないかと考えています。  3号刀 短刀 銘 表 信濃守國廣 裏 慶長十二二 二月日
 
 本作は堀川國廣79歳の時の作品です。
  姿は大振りで反りがあり、直刃出来。一見して来國光・来國次あたりに見えますが、違う点は重ねが厚く、持った時にズッシリとした重さがあるところです。  来國光・来國次あたりですと重ねが薄く、もっと手持ちが良いものです。 そして本作の映りは鎺元からクッキリとした立ち上がりが直線状に上がっていく、つまり水影映りが直映りに変化しているのですが、そういった映りは来にはみられません。  また刃文も本作は元から先まで比較的均一な幅の直刃を焼いていますが、来であれば後天的ではありますが物打ちあたりが細くなるという傾向があります。  そういったところから来ではなく、それらを狙った写しものであると気付いていただきたいです。  なお一般的に来写しの短刀というと美濃物となりますが、美濃物の京写しというのは来國俊や藤四郎吉光あたりを狙ったものが大半であり、来國光・来國次あたりを狙ったものはあまり見たことがなく、稀にあってももっと大振りになり先反りが強くなるという違いがあります。  また同じく来写しを得意とした肥前忠吉の場合は、刃淵が帯状になるといわれており、これを地元長崎では毛糸のようだと表現されています。  本作の刃文をみますと、表の中ほどあたりに少し匂口が締まり加減のところがありますが、そういったムラは肥前刀ではありません。  水影映りも忠吉にありますが、直映りに繋がっているところなどから総合して堀川物とみていただきたいです。  それから堀川物といいますと、よくザングリした肌といわれておりますが、この「ザングリ」という言葉は『京ことば辞典』によれば京都の茶道用語で「おおまかな作りこみがかえって味わいがある」という意味だそうです。
  この「ザングリ」という表現は戦前の刀剣界では使われていない言葉ですが、今は誌上鑑定で堀川物に誘導するために「ザングリ」という書き方がされています。  従ってすべての堀川物がザングリとしている訳ではなく、本作のような小板目がよくつんだ状態もザングリではありませんので、そういった既成概念に捉われないようにしてください。
  堀川國廣は日向伊東家に仕えていましたが、日向が島津に侵略されると、伊東家は没落し國廣は山伏となって放浪します。 そして今の栃木県の足利に逗留したおりに長尾顕長の所持する長義を磨り上げ、ついでにその写しを製作したものが「山姥切國廣」として有名です。  その後、伊東家は豊臣秀吉の元で再興を果たし、九州征伐で功を挙げて返り咲くこととなりますが、その縁があってか國廣も豊臣家に仕え、作刀以外にも武家奉公をしていたようです。   4号刀 刀 銘 兼元(孫六)
 
 鎬幅広く、鎬高く、鎬地の柾目が鮮明で、直刃出来ですから末手掻か美濃とみるべきところです。
  これをぜひ美濃にみていただきたいのは、まず帽子が倒れていることです。大和物でも帽子が返ることはありますが、帽子が倒れるというのは末手掻ではあまり聞いたことがないです。  そして表裏揃った位置に節刃がありますが、この刃文も美濃の特徴の一つと思います。  またこれをぜひ兼元と見て頂きたいのは、手持ちが非常に良いというところがあげられます。  昔の方は手持ちの重たい兼元はそれだけで偽物だといわれるくらいであったと言っておられます。   そして孫六兼元といえば三本杉が有名で、そういった刃文を焼いたものが多いですが、短刀を中心として直刃もそこそこ焼いており、刀では本作を含めて3~4振りを見たことがあります。  またその中でも本作は兼元と極めやすい作であったので、今回の入札でも一の札で兼元と入れられた方が3名ほどいました。  5号刀 短刀 銘 表 相模國住人廣光 裏 延文五年卯月日
 
 姿は大振りで、反りがつき、重ねが薄めの姿から南北朝期の作であると捉えられます。
  鍛えは板目に杢交じえて、少し肌立ち、地景が入る典型的な相州物の鍛えです。  刃文は皆焼に見えますが、棟は焼いておらず、下半には飛び焼きが結構入っており、刃文一つづつの形が掴みにくいです。  これを江戸時代の人は狂った刃文と言いました。これは正宗が創始した刃文といわれ、上から下までその刃文であれば正宗といえます。  本作をぜひ廣光とみていただきたいところは、物打ちあたりに丸い玉を焼いているところで、これを団子丁字と言います。  この団子丁字は廣光・秋廣が最も得意としたところで、ここで相州物と捉えていただきたいところです。  6号刀 短刀 銘 長谷部国重
 
 本作は少し小振りですが、重ねが薄いので南北朝期姿と捉えることができます。
  南北朝スタイルで小振りの短刀というと、長義・左文字・兼氏・長谷部が挙げられ、入札もこれらの刀工が目立ちました。  本作をよくみますと、一号刀で挙げました長谷部の特徴がみられます。  まず重ねが一段と薄い。それから鍛えが柾がかっている。鍛え肌がみえなくとも沸の流れで柾がかっていることが分かる。
 そして棟焼きが長々と入っているなど長谷部の典型的な作の一つと思います。
 ただ一つ、帽子が尖っている点が長谷部と踏み切れないところですが、元々細身ですし、そのなかで得意とする大丸には焼けないのかなという気がします。
 
 長谷部というと帽子の丸いことが特徴の一つとされていますが、必ずしもそうではなく、丸いものが多いということですので、こういった尖った帽子の作もあると記憶に留めておいてください。
  それと兼氏の入札ですが、柾目鍛えから、同じ大和出身の兼氏という着眼点は良いと思いますが、姿はもうすこしふくらが張り加減であり、こういった乱れた刃文は無銘の極めものばかりで、在銘作には湾れを主調としたものしかないと思いますし、兼氏こそ帽子が尖るものは在銘無銘含めてもありません。  本来6号刀は鑑定刀ではなく鑑賞刀にするべきかと思いましたが、1号から5号刀までが典型作で簡単過ぎたため一問ぐらいは難問をと加えました。 
 
 第3回定例研究会
 
 令和2年9月13日(日)関市文化会館にて、日本美術刀剣保存協会富山支部事務局、山誠二郎氏に講師を務めていただき、第3回定例研究会を開催いたしました。
 
 1号刀 短刀 銘 表 備前國長(以下切れ)(真長) 裏 徳治三年(以下切れ) 第三十七回重要刀剣
 
 姿は平造り、庵棟、身幅尋常、重ね厚く、寸延びる。彫刻は表に梵字と三鈷付剣、裏は梵字と腰元に太樋と細樋を掻き流す。
 地鉄は板目肌、地沸つき、地景入り、淡く映り立つ。刃文は小湾れに互の目交じり、総じてこずみ、匂勝ちとなり、ややうるむ。帽子は直ぐごころ、小丸に浅く返る。
 茎は磨り上げ、先浅い栗尻、鑢目筋違、目釘孔二、指表下半中央に四字銘、裏に同じく年記があり、表裏とも途中で切れる。
 
 本作磨り上げられ銘文が途中で切れているが、深く筋違いとなる鑢目、書体から鑑みて、真長であることに疑いなく、小湾れに互の目が交じり、総じてこずむ作風には、
 真長の特徴がよく示されている。現存する真長の作例中、短刀は稀有であり、徳治三年の年期と共に資料として貴重である。
 本作の彫刻をみていただくと、三鈷付剣の持ち手のところが丸く彫られています。これは備前刀にみられる彫刻の特徴ですので覚えていただきたいと思います。
 
 2号刀 脇指 銘 表 津田越前守助廣 裏 寛文十二年八月日 第五十五回重要刀剣
 
 姿は鎬造り、庵棟、棟の卸しやや急、身幅広く、元先に幅差あまり目立たず、鎬低く、重ね厚め、踏ん張りごころがあり、反り浅めにつき、中切先。
 地鉄は小板目肌よく詰み、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、鉄冴える。
 刃文は直に焼出し、その上は大互の目乱れ、互の目、小湾れを交え濤瀾風、足太くよく入り、匂深く、沸厚くつき、総体に細かな砂流しかかり、金筋随所に入り、
 玉状の飛焼かかり、淡く棟を焼き、匂口明るく冴える。帽子は焼深く、直に小丸に返り、先細かに掃き掛ける。
 茎は生ぶ、先入山形、化粧鑢(香包鑢)、目釘孔一、指表目釘孔下の棟寄りにやや太鏨で大振りな七字銘、裏は目釘孔より半字上げて同じく草書の年期がある。
 
 銘字が角ばったいわゆる角津田といわれるころの作で、もう少し後になると丸津田といわれる丸い銘字に変わります。
 濤瀾刃で名高い助廣ですが、濤欄刃の完成は延宝四年(1676年)ころといわれています。本作は寛文十二年(1672)の年期があり、その頃より少し前の作となります。
 濤欄刃は立ち上がるところが緩やかなものと、急なものが交じっているもののことで、そうでなければ大互の目乱れと呼んで区別しています。
 本作の刃文をみますと元の方に少し緩やかな刃が交じっていますので、全体的に濤欄刃とはいえないですが、濤欄刃の風合いが出てきています。
 他にも玉を焼き華やかであり、匂も叢なくつき、焼き出しがみられ、帽子も綺麗な小丸に返り、地鉄がよく詰み非常に美しいことなどを考えると、大坂新刀の上工とみれると思います。
 
 3号刀 脇指 銘 表 津田近江守助直 裏 貞享三年八月日 第十二回重要刀剣
 
 姿は鎬造り、庵棟、身幅広く、元先に幅差あまり目立たず、重ね厚め、踏ん張りごころがあり、反り浅めにつき、中切先。
 地鉄は小板目肌よく詰み、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、鉄冴える。
 刃文は直に焼出し、その上は大互の目乱れ、互の目、小湾れを交え濤瀾風、足太くよく入り、匂深く、沸厚くつき、総体に細かな砂流しかかり、匂口明るく冴える。
 帽子は焼深く、直に小丸に返り、先細かに掃き掛ける。
 茎は生ぶ、先入山形、化粧鑢(香包鑢)、目釘孔一、指表目釘孔下の棟寄りにやや太鏨で七字銘、裏は目釘孔より半字上げて同じく草書の年期がある。
 
 本作は二号刀と比較しても遜色のない、非常に良く出来た助直です。助直は近江国の高木出身で、越前守助廣に作刀を学び、後に妹婿か娘婿になったと伝わる。
 修行の後は生国に帰ったのか、延宝年期の作は「高木住」と切った作が多い。天保二年、越前守助廣の死後は大坂の鎗屋町に住し、元禄六年期の作がある。
 
 4号刀 脇指 銘 表 長曽祢興里入道乕徹 裏 (金象嵌銘)寛文五年十二月十六日 山野加右衞門六十八歳永久(華押) 两車截断 第四十五回重要刀剣
 
 姿は鎬造り、庵棟、身幅尋常、元先に幅差つき、重ね厚め、反りやや深めにつき、踏ん張りごころがあり、中切先つまる。
 地鉄は板目肌に杢交じり、肌立ちごころ、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、鉄冴える。
 刃文は中直刃、僅かに浅く湾れ風、匂深く、小沸厚くつき、小さく砂流し入り、匂口明るく冴える。帽子は直に小丸、やや深く返り、先掃き掛ける。
 茎は生ぶ、先刃上がり栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一、指表の目釘孔に「長」の字をかけて、鎬筋を中心に細鏨の長銘があり、裏に三行にわたって山野加右衛門永久の金象嵌截断銘がある。
 
 本作は「虎」の字を「乕」と切った、角虎・ハコ虎といわれる作です。
 長曽祢興里といえば初期は瓢箪刃、後期は数珠刃が有名ですが、本作は興里としては比較的珍しい直刃ですので、入札鑑定としては難物であったと思います。
 興里がこの種の作柄を手掛けた場合、匂口が締まりごころとなるのが通例ですが、この作はそれと相違して匂深で、小沸が叢なく厚くついています。
 珍品ですが、こういった作もあると覚えていただきたく思います。
 なお刀剣美術の五一七号の誌上鑑定に本作と同時期の金象嵌銘があり、直刃出来のよく似た興里の刀が出題されております。
 
 5号刀 脇指 銘 表 正秀(華押) 裏 寛政四年八月日
 
 姿は鎬造り、庵棟、身幅尋常、元先に幅やや開き、重ね厚め、反りやや深めにつき、踏ん張りごころがあり、中切先で、平肉が乏しい。
 地鉄は板目肌に杢交じり、肌立ちごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入る。
 刃文は広直刃に浅く湾れ、沸・匂深く、荒沸つき、喰違い刃に湯走り状の刃交じり、匂口に広狭があり、金筋・砂流しかかる。帽子は直に丸く返る。
 茎は生ぶ、先刃上がり栗尻、化粧鑢、目釘孔一、指表目釘孔にかけて二字銘と華押、裏は目釘孔より上げて年期がある。
 
 本作は水心子正秀の脇指でした。水心子正秀は晩年には復古刀論を唱え、専ら備前伝に取り組んでいますが、それまでは主に大坂新刀の写し物を作刀しています。
 また大坂新刀写しの作は出来が優れ、中でも寛政・享和ごろの作はその最盛期にあたります。
 本作も入札鑑定としては難物で、井上真改や南紀重國といった札がありましたが、そうみられるのも無理はないと思います。
 ですがそれらの刀工と相違するところを挙げるとすれば、本作は僅ですが平肉が乏しいところ、中ほどに地にこぼれる様な荒沸がつくところ、
 そして井上真改や南紀重國であればもう少し匂が深くなるところかと思います。
 
 
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