令和6年9月14日(土)、せきてらすにて日本刀初心者セミナーと第3回定例研究会を開催いたしました。
午前には当支部主催の日本刀初心者セミナーを行い、多くの若い方にご参加いただきました。
午後の研究会では講師として当支部の若原副支部長に講師をつとめていただき、今回は初心者の方も体験参加されているということで、いつも以上に分かりやすく解説いただきました。
1号刀 刀 銘 濃州関住兼常作/天文六年八月吉日
この刀姿は時代が極めにくいものですが、先反りの付いた姿から室町末期と考えるのが自然です。
鎬がやや高く、鍛えは板目に杢交えて肌立ち気味に流れ、明瞭な焼出し映りから幽かな乱れ映りに変化します。
このような映りは美濃物に見られ、腰刃を焼いているところも美濃と見極める大きな見所です。
兼常は代々家伝の直刃を墨守しておりますが、この刀は南北朝期の志津を彷彿させる刃文を焼いています。
作風から兼常と認めるだけの特徴は見出せず個銘当たりは難しいことから末関と見られれば結構ですが、孫六に関してはこのような刃文はありませんので注意を要します。
なお末関に湾れ刃が流行するのは、もう少し時代の下った氏房や大道あたりからですが、本作はその嚆矢といえるものであり、この二工に入れられた方は大変結構でした。
ただし大道の場合はもう少し大振りとなり、慶長新刀に近い刀姿で鋒も大きく伸びるものが多いです。
2号刀 脇指 銘 於南紀重國造之
身幅が広く元幅と先幅のひらきが目立たず、かつやや寸がつまり、重ねが厚いことから慶長新刀と捉えることが出来ます。
また鎬が高く、中沸出来の中直刃を焼き、帽子は直ぐに先小丸となり、返りはごく浅いことから、所謂手掻写しと見て頂きたいと思います。
重國の作風には、本作のような大和手掻包永に私淑した直刃の出来と相州上工、就中、江に私淑したと思われる乱れ刃の両様があります。
この脇差は重ねが厚く平肉がついてズッシリとしています。
新刀期の直刃と見て、肥前刀との見方もございましたが、肥前刀ならば、通常小板目が詰んだいわゆる米糠肌の鍛えに、刃文は沸の付きようが毛糸を見るようなと形容され、帽子は来の如く直ぐに小丸に返ります。
また重國の匂い口の明るさは虎徹や助廣に匹敵すると言われておりますが、これは徳川家康や紀州公に仕えて、最良の玉鋼が入手できたからだと思われます。
3号刀 太刀 銘 備中國住次吉
磨り上げているために踏張りが抜けていますが、元先の幅差が目立たず、中切先が伸びていることから南北朝期の太刀姿と捉えられます。
鍛えは、小板目が詰んで艶があり、刃文は直刃調で匂口が締まり、僅かに逆がかった足を交え、ささやかな二重刃が掛かるなど、青江の特徴が見て取れます。
青江物は縮緬肌とイメージされていると思われますが、鎌倉末期から南北朝にかけては、本作のようによく詰んで比較的綺麗な肌が見られます。
また、青江物は鎌倉時代には沸出来ですが、南北朝時代になると匂出来になります。
本作は青江次吉の太刀ですが、南北朝期の青江の刀工と見て頂ければ結構です。
強いて言えば、次直は逆丁子が得意であり、直刃は次吉に多く見られます。
直刃調で逆足が見られることから、備前の雲次、雲重などの見方もありましたが、雲類ならば独特の地斑映りがあらわれ、たいがいが肌立ってくるものです。
4号刀 短刀 銘 弘幸
身幅が広く寸延び、僅かに反りのついた体配より時代を慶長新刀期のものと捉えることが出来ます。
鍛えは、板目に杢交えて流れ、刃文は浅く湾れがかった細直刃を焼いています。
慶長期において短刀で直刃を得意としているのは、肥前忠吉、尾張の政常、平安城弘幸などが挙げられます。
忠吉ならば、肥前刀特有の米糠肌か来写しの古調な肌で、刃文は中直刃となり、姿は内反りか無反りが大半を占めます。
また、政常も中直刃となり、反りは殆ど見られません。
消去法でいくと残った弘幸の刃文は、目立って刃幅の低い小沸づいた細直刃を焼くことから本作と合致し、弘幸と導かれます。
彼は現存する作が少なく、鎬造の刀よりも平造の短刀、小脇指が多い作者です。
また帽子は本作のような直ぐに小丸や浅く湾れ込み小丸などが見られます。
弘幸は堀川國廣門下とされていますが、この堀川物の鍛えをさしてザングリという表現が使われます。
ザングリという言葉は、現代では鍛えが細かく詰まらず、地肌がよく現れ、荒れ気味に見えるというような表現がされますが、本作の弘幸にはそのような鍛えは見られません。
したがって堀川物だからザングリとした鍛えと覚えないように、一振り毎によくその鍛えを見て頂きたいと思います。
5号刀 刀 銘 相州住廣次
姿は、鎬幅がやや広く鎬を卸しています。これらは戦国時代の皆焼を焼く作に限られる姿であり、敢えて大和伝の特徴である鎬が高いという表現とは区別して鎬を卸すとか、盗むとかいわれます。
室町時代の皆焼刃は、末相州のほか、末備前にみられます。
本作は、末相州によくみられる巧みな彫りがありませんが、末備前の皆焼は腰開き互の目を基調としているのに対し、末相州の皆焼は谷底が直ぐ調であることから、末相州と導かれます。
末相州には、綱廣を代表とする鎌倉相州鍛冶と総宗、康國等の小田原相州鍛冶があります。廣次は鎌倉相州鍛冶にあたりますが、同工と認めるだけの特徴は見出せず個銘当たりは難しいことから、末相州と見て頂ければ結構です。
本作は、刻銘の相の右側が月のように切られていることから明應頃の作と思われ、表裏で刃文の違う児の手柏(このてがしわ)風を焼いており、匂口が締まり沸は明るく冴え、出来の良いものです。
令和6年7月13日(土)、公益財団法人日本美術刀剣保存協会より石井彰学芸部長に講師としてお越しいただき、岐阜市南部コミュニティセンターにて第2回定例研究会を開催しました。
1号刀 刀 銘 津田越前守助廣/延寶九年八月日
2号刀 刀 銘 武蔵大掾藤原是一
3号刀 刀 銘 備前國住長舩与三左衛門尉祐定作/天文二年二月日
4号刀 短刀 銘 清磨
5号刀 刀 銘 近江大掾藤原忠廣/肥前國住陸奥守忠吉
令和6年5月25日、関市文化会館にて午前は日本刀初心者セミナー、午後からは第1回定例研究会および総会を開催し、研究会には富山県支部より山誠二郎氏に講師としてお越しいただきました。
日本刀初心者セミナーでは日本刀のあらましの説明に始まり、鑑賞時の取り扱い方とマナー講習の後、実際に鑑賞いただきました。
1号刀 刀 銘 和泉守藤原國貞
親國貞は初代河内守國助と共に大坂新刀の草分け的な存在として知られています。今回は親國貞だけではなく國儔の入札もありました。
親國貞は堀川一門で國廣晩年の頃の弟子とされていますが、実際には同門の越後守國儔が事実上の師匠と思われ、本作も兼㝎に範を取ったと考えられる國儔に似た出来を示しています。
寛永頃の姿をしており、新刀と見て美濃の兼㝎に似ているなと思ったら國儔に入れてもらっていいかと思います。
ただ指し表の帽子に飛び焼きが入っていますが、三ツ頭の所に飛び焼きが入るというのが親國貞の特徴の一つです。また、棟焼きが入っているところも國儔と國貞の違いです。
國貞は元和九年五月に和泉守を受領しますが、本作は銘振りから寛永三年頃といわれています。
2号刀 短刀 銘 備前國住長舩与三左衛門尉祐定/天文十年八月日
末備前の刀工の特徴が如実に現れた出来口を示しています。
本作は皆焼風の刃を焼いており、室町時代末期頃でいうと末相州、末備前、島田、村正、宇多、冬廣、廣賀、平高田などが皆焼を焼く刀工として挙げられます。
姿を見ると寸が短くて重ねが非常に厚いです。また先にいって急に細くなる形状も末物の特徴です。
板目肌が詰んで荒れたところもなく、非常に冴えた鉄ですので、末備前の中でも技倆の高い祐定、なかんずく与三左衛門と見ていただければと思います。
末備前の刀工では清光であれば直刃、勝光ですと丁字を得意としていますので、腰開き互の目に複式互の目といわれるような刃が交った本作の場合は祐定と見たほうが良いです。
3号刀 脇指 銘 水心子正秀/天明六年八月日
皆さん悩まれたようで、虎徹や大坂新刀の札がありました。
新々刀では無地風といって肌模様が見えないような地肌が特徴ですが、本作は大坂新刀に見紛うような地肌をしております。水心子正秀は大坂新刀写しの場合には板目が詰んだ肌が出るのが特徴というのを覚えていただければと思います。
鎬幅の狭いところや平肉がついていないところで新々刀と見ることもできますが、非常によくできていますので本歌の大坂新刀であったり、瓢箪刃のような刃も見えましたので虎徹といった札にいかれたのだと思います。
姿以外で水心子正秀といきたい点は、腰元の乱れについた荒い沸が地にこぼれるようについているところです。こうした特徴は助廣などには見られません。
4号刀 刀 銘 出羽國大慶庄司直胤(花押)/文化十一年仲春 腰車土壇拂太田良蔵試之
身幅が広く鋒が延びごころになって手持ちが重いです。映りも出ていますから、南北朝の兼光あたりの写しだと思われます。
磨り上げであれば腰元の踏ん張りが抜ける筈ですが、本作は踏ん張りが残っており、樋が腰元で丸留め、地肌も無地風となっていますので総合的に見て新々刀と考えることができます。
直胤は細川正義と共に師である水心子正秀が提唱した復古造法論を実践しました。
五ヶ伝全ての作刀をしましたが、備前伝と相州伝が上手といわれています。文化、文政年間に備前伝の作例が多く、逆がかった刃や角互の目が連れた兼光写しをよく焼いています。
淡い飛焼が入ったような焼け映りと呼ばれる直胤特有の映りが立っており、刃中の足が刃先に抜けていくといわれますが、本作にもそれが確認できます。
また腰元の刃がうるむというのも、水心子一門の特徴とされています。
5号刀 刀 銘 於東都近藤景保依好 尾陽住固山宗次作之/天保六未八月 於千住二ツ胴截断 伊賀乗重
身幅が広く、元先の幅差がややつき、重ねが厚く、反り浅めで、中切先延びる姿から新々刀と捉えることができます。
そして固山宗次は匂勝ちの丁字などの乱れ刃を三、四寸の間隔で同じパターンの刃取りを繰り返すというのが特徴で、本作では意識して探すとそういった箇所が見て取れます。
また同じ新々刀備前伝の4号刀直胤との違いは、刃文が逆がからない点です。
砂流しがかかっているので清麿や栗原信秀の札もありました。清麿であればフクラが鋭利な姿となり、もっと沸づきます。刃文も馬の歯形と呼ばれる乱れ刃になりますので、本作の刃文とは違います。
なお固山宗次は加藤綱英の弟子といわれていますが、実際には長運斎綱俊の影響が大きいものと思われます。