令和6年3月9日、岐阜市南部コミュニティセンターにて日本刀初心者セミナーと第6回定例研究会を開催しました。
日本刀初心者セミナーには16名の方が参加され、日本刀のあらましや安全な鑑賞方法・マナーなどの解説を受けた後、実際に手に取っての鑑賞を行い、参加者は緊張しつつも熱心に鑑賞されていました。
第6回定例研究会では若原副支部長に講師を務めていただきました。
1号刀 刀 銘 兼吉
来國俊の小太刀に私淑した作です。従って姿から室町時代の特徴を見つけることは難しかったと思います。
乱れ映りが立ち、上手な細直刃を焼いて棟焼きまであるところからかなり研究された写しといえます。
しかし子細に見ると鎬が高く、鎬幅もやや広めな点に美濃気質が窺え、一筋樋も異風で手慣れていないところから来と見るには少しく違和感を覚えます。
なお善定の特徴として古歌に「細直刃善定兼吉兼國は帽子は丸く沸は稀なり」とあるように、帽子が倒れたり、丸みが大きくなることがありますが、殊に表の返りが寄っているところなどは来の小丸から短く返る素直な帽子とは趣を異としています。
また雲生にも紛れるところがありますが、鵜飼派に棟焼きが交じることはなく、映りも片面だけに現れたり、指で押したようにと形容される暗帯になる特徴があります。
ちなみに巷間関もので直刃の短刀を全て来写しと称していますが、本当の来写しとはこのようなものをいうのであろうと思われます。
ただし来写しとはいっても刀身だけのことであり、茎のコミが極端に短いところは片手打ちの打刀として作られているといえますが、美濃の片手打ちはこのような小太刀姿が多く、末備前の片手打ちは先反りのついた寸詰まりの打刀姿が多い傾向にあります。
2号刀 刀 銘 筑前國福岡住守次
寛文新刀は元先の幅差があって反りが浅いというのが約束事でありますが、九州の肥前刀や筑前刀の中には深く反るものがままあり、中央から遠く離れた地方色というか時流に背を向けていた顧客の居たことが本作からも伺われます。
従って姿から時代を絞り込むことは容易ではありませんが、それでも子細に見れば元幅に比して先幅の狭い造り込みをしており、広義的には寛文期の時代相といえます。
さらに鎬柾で乱れ映りが立ち、逆がかった丁子刃を焼いているところから武蔵大掾是一か門下の福岡石堂が候補に挙げられますが、先ほど説明した姿と総体に焼が深く、ところどころ鎬を超す点や、刃中に焼が抜けた玉が交じること、それに烏賊の頭と称される大きく尖った刃を交えるところで素直に福岡石堂へと誘導されます。
福岡石堂には是次と守次の二工がありますが、作風においては全く差がなく刻銘まで非常に似ているので何れに見ても当りとしました。
ただし敢えて些細な違いを述べるなら是次の方は残存数が少なく、反りが浅く三つ棟が多い傾向にあることを補足します。
3号刀 太刀 銘 親次
本作は磨り上げられてはいますが、未だ腰反りの太刀姿を留めております。
そして先にも反りが加わっていますので、鎌倉後期姿と見て頂きたいと思います。
鍛えは板目に杢が交じり精良、肌立って乱れ映りが立つもので、同時代の備前ものと大差がなく特徴的な段映りも見られませんが、刃文には逆丁子が盛んに入っており、素直に青江と導かれます。
なお逆丁子を捉えて景光という見方もありますが、景光の鍛えは叩き詰めたようによく詰むと言われており、刃文も片落ち互の目が目立ってくる点に相違があります。
ちなみにこの時代の青江は縮緬肌ではなく、刃文も沸から匂い勝ちへと変化しており、同じ青江でも南北朝期の次𠮷や次直のような、大振りで大切先にはなっていない点で一時代上がっていると区別して頂きたいと思います。
この親次は青江として重要刀剣指定を受けており青江助次の子で嘉元ころのものであろうとありますが、同工と認めるだけの特徴は見出せず個銘当たりは難しいことから同時代の青江とみられれば結構です。
なお、同時代の備前新田庄にも親依の一族で親次を名乗る鍛冶がおり、鏨運びも近いものがあって同人と見る向きもあることも付け加えておきます。
4号刀 短刀 銘 包真
身幅頃合いにごく浅い反りのついた姿をしていますが、重ねは尋常でふくらが枯れており、帽子の焼が深く、返りが倒れ加減で長く焼き下げているのは戦国時代の特色です。
こうした姿に中直刃を焼いていることで、大和系もしくは末関と絞るのが自然と思われます。
ただし美濃物でこの手の作であれば明瞭な映りを伴うことが多く、刃長も八寸前後が一般的ですが、本作はやや大振りで鍛えが強く、地景が勝って映りは抑えられています。
従って大和系へと収斂されますが、中でも指裏に見るような物打ちから上へ焼幅を広げていくのは本国末手掻の手癖と言え、なおかつ帽子の返りが深いこともまた然りです。
末手掻には、包俊・包清・包吉・包貞など「包」を通字とする刀工等が存在しますが、一派は個々の特性が少なく、ために個銘を特定することが容易ではないことから、大きく末手掻の刀工と鑑ていただきたいと思います。
5号刀 刀 銘 兼常
二尺四寸五分とやや長寸の割に反りが浅く、中切先伸びごころの姿から新古境と時代を捉えることが出来ます。
鎬地が柾がかかるところに美濃気質がありますが、この時期の美濃刀を代表する陸奥守大道や若狭守氏房、権少将氏貞などには、織田家中に好かれたと思われる谷底の揃った兼房乱れか、湾れを主調とした焼刃が多く、本作のような直ぐ調に小互の目を交えたものは時代遅れだったのか殆ど見ません。
しかし末関を率いていた大名跡兼常は家伝の直刃を墨守しており、こうした刃文もまま見かけるところですが、就中徳川家康の配下に加わり後に相模守政常と改銘することになる本工には、数少ない刀に同様の作例を見ます。
本作は、その相模守政常の改銘前天正打ちの刀ですが、政常は尾張三作と称される名工の一人で槍の作例がずば抜けて多く、次いで短刀を盛んに打っており、刀の作例は信高、氏房に比べようもなく極端に少ないです。
その理由は小牧長久手の合戦に際して徳川家康へ槍100筋を献上したところ、ことのほかお気に召してそれ以降度々槍の御用を仰せ遣わされることになり、それが槍は政常という名声になって彼のもとに注文が集中したものと思われます。
また戦国時代の終焉とともに需要が激減したはずの短刀については、贈答品として重宝されてきたという俗説があり、これも永正ころの兼常が中心となって盛んに作ってきた栄冠を受け継いだものと思われます。
令和6年1月13日(土)グランヴェール岐山にて、久保恭子先生に講師としてお越しいただき、第5回定例研究会と尾川兼國師の岐阜県重要無形文化財保持者指定を寿ぐ会を開催いたしました。寿ぐ会の様子は
こちらです。
1号刀 短刀 朱銘 則國/本阿(花押)
粟田口には本作のように細身で重ねが厚い物のほかにも、身幅の割に寸が詰まったものや、反対に身幅の割に寸延びたものなど様々な姿があります。そのため姿から粟田口と考えるのは難しいと思います。
地鉄に注目していただくと、2号刀の来も同じ山城の刀工ですが、粟田口は地沸や刃縁の沸、沸映りもより一段と強いです。
本作は正徳三年の光忠折紙がつき、鑑刀日々抄にも所載されている、古くから知られた作品です。是非この機会に粟田口の地刃を再認識していただければと思います。
2号刀 太刀 銘 来國俊 京都所司代 板倉家伝来
来國俊としては重ね厚く、身幅広く、詰まった中切先で、いわゆる陽の姿をしています。
また綺麗な輪反りで、地鉄に流れごころが見られる点や、佩き表の京逆足も来國俊の特徴です。
本作は直刃を基調として、その中に小互の目を交えて足、葉が盛んに入っています。こういった出来の来國俊はそうそうないですが、銘振りを見ると初期の銘の特徴が出ています。
二字國俊と来國俊の関係については、同人説と別人説が未だにはっきりしていませんが、この作品をもって同人による作風の変遷と考える方もいるようです。
帽子が大丸ごころに返っているので延寿という札もありましたが、よく見ると返りが深く棟焼きに繋がっています。この辺りを捉えて総合的に来と見ていただければと思います。
3号刀 脇指 銘 兼先
兼房乱れと気づかれた方は末関に見ることができていましたが、應永備前のご入札も多くありました。
應永備前であれば乱れこんで先が尖って浅く返るロウソクの芯と呼ばれる帽子となり、黒っぽい細かい地景が入ったり、映りも棒映りが立ちます。
本作は鎬寄りに映りが立っており、帽子も地蔵帽子を呈しています。
兼先は新刀まで代を重ねていますが、永正頃の初代とされる銘振りに酷似していますので、本作も極初期の兼先だと思われます。
4号刀 刀 銘 備前國長舩祐定作之/天正七年八月吉日
先反りが強く、帽子は焼きが深い一枚風で、室町末期と見ることができます。
刃文全体を見ると直刃調ですが、下半は浅く湾れ、上は湯走りや飛焼も入って一見すると皆焼のようになっています。
末物と見て、本作のように地鉄が綺麗であったならば備前の源兵衛尉祐定などにご入札いただければと思います。
今回は清光のご入札が多くありましたが、清光はここまで匂い口が締まらず、刃中に葉が連なっている景色がどこかしらに入ります。
なお年紀からみて本作は源兵衛尉の作と思われます。
5号刀 脇指 銘 越中守正俊
越中守正俊の典型的な作品です。福井藩主の松平春嶽の愛刀です。
身幅が広く先反りがつき、重ねも厚い慶長年間の姿をしています。
表の帽子が特に先の尖った三品帽子になっていますので、三品一門のご入札が多くありました。
出羽大掾國路は越中守正俊と近似した作品が多いので、とても良い入札だと思います。伊賀守金道ですともう少し砂流しが強くかかって、刃文も小模様になります。
越中守正俊の特色として、闊達に乱れて刃文の頭の方向が一様ではない、刃文の頭同士がくっついて玉状に焼きが抜けていたり、飛焼や湯走りが入る点などが挙げられます。
出羽大掾國路にも稀にそうした出来が見られますが、より濃密な彫物が入るのが出羽大掾國路です。
元来出羽大掾國路は堀川の出であるため、地肌が流れごころとなる関系の正俊とは相違します。
令和5年11月11日(土)岐阜市南部コミュニティセンターにて、 急用でお越し頂けなかった舟山堂稲留社長のピンチヒッタ-として近藤支部長に判者を務めていただき、第4回定例研究会を開催いたしました。
1号刀 刀 銘 國次
この國次は手搔派の流れを汲む粉河鍛治です。
現在の和歌山市北部にある紀州粉河寺に隷属し、雑賀衆や根来衆を
相手に活動していました。
マイナーな鍛冶なので、初めて見た方も多いかと思います。
細身で踏ん張りの抜けた磨り上げ姿に見紛いますが、先反りの強いところから片手打ちの打刀と捉えられます。
刃文は直刃を主調にして鎬が高く、鎬地の柾鍛えから大和系か末関が候補に挙げられますが、美濃ものほど映りが目立ちません。
そうなると大和系の末手搔か末三原へと絞られますが、末三原は杢交じりに肌立ち加減で、同じ直刃でも沸がつき、帽子も掃き掛けるものが多いです。
これらのことから残る末手搔と見ていただければ結構でした。
ただ本作には逆がかる足や、陰の牙刃、さらに指裏中程に段映りがみられますので、青江あたりを狙って作られているのかもしれません。
そのため青江のほか、雲類の札も散見されました。
國次は同名工が多く、本工の場合は簾戸(すど)國次と通称されています。
なぜ簾戸國次かといいますと、國構えの中を米印(※)のように刻銘しており、これが簾戸に似ていることが由来とされています。
しかし本来の簾戸とは葦を細かく編んだ葦簾を建具に嵌め込んだ、京都の町屋などで使われるいわゆる夏障子のことで、囗に※のような形をしたものは枝折戸という庭園用の扉のことです。
ですから誤った情報を鵜呑みしないようにしてください。
2号刀 短刀 銘 義助
義助は蜻蛉切・日本号と並ぶ天下三槍の一つ、御手杵の作者として有名です。
連歌師飯尾宗祇の高弟として有名な柴屋軒宗長は、今川義忠・氏親に仕えて各地の合戦にも従軍していますが、その出自は文安頃の義助の子であり、本作の義助とは兄弟か、それに近い縁者と思われます。
島田鍛冶の作風は隣国の相州風と美濃風、村正風などがありますが、本作は鍛に柾気があって美濃伝、刃文は沸出来で相州伝と双方の特徴を見ることが出来ます。
重ねが薄めで南北朝ころのものにも見えますが、地刃が明るく、湯走りがない所からもう少し時代は下ると捉えられます。
難問ですので、廣正あたりに見ていただければ結構でした。
この「義助」の読み方ですが、『刀剣銘字大鑑』ではギスケ、『藤代刀工辞典』はヨシスケとしています。
義助には儀助と銘を切った作例もありまして、「義」の音読みは「ギ」、訓読みは「よし」ですが、「儀」の音読みは同じ「ギ」でも、訓読みは「のり」ですので、
「ギスケ」が正しい読み方であると考えられます。
3号刀 刀 銘 粟田口近江守忠綱彫同作/正徳元年八月日
忠綱は元禄期を代表する大坂鍛冶です。
私見ですが前時代の寛文期と比べてこの時期に超有名工が少ないのは、明暦の大火で大量に焼失した刀の補充が一段落したためと考えています。
その一方で町人文化が台頭し、一段と技巧に富んだ作風が好まれました。
また助廣や虎徹には目立たなかった金筋がやたら強調され、彫物も華やかな図柄がもてはやされています。
本作に見る龍のおどけたような面相に、ドングリ眼と評される独特な彫りは正しく忠綱の得意としたところで、また三鈷の中央が短いところも特徴です。
彫りがあるものが数多く作られ、自身彫である旨を必ず刻銘しています。
入札には肥前刀と見た札もありました。
肥前刀との違いは同じ直刃でも物打ちの沸づきが深い点と、帽子の焼きが肥前はふくらに並行して先で小丸に返りますが、忠綱はこの作のように深く焼く点に個性があります。
また末備前の札もありましたが、刀を拝借した舟山堂さんの説によると、本作は末備前忠光の写しであるとのことで尤もな見方ですが、映りがなく剣彫も鎬筋を中心にしていますので大坂新刀の写しものと見極めて頂きたいと思います。
4号刀 脇指 銘 兼上
平造りながら一尺を超す大振りな姿に先反りが加わり皆焼風の刃文を焼くのは戦国時代の美濃か東海道筋の鍛冶の作域です。
刃文は匂口の締まった谷底の丸い互の目と尖り刃、矢筈風の刃を交えており、鎺元から映りが立っています。
そういった点から、素直に同時代の末関諸工に入札いただければ個銘当たらずとも結構です。
5号刀 刀 銘 備前國住長舩幸光/明應九年八月日
片手打の打刀姿ですが、彫りが鎬筋を中心として配置していないのは末備前の特徴です。
また淡いながらも乱れた映りが立ち、こづんだ互の目丁字も末備前へと収斂されます。
個銘は当たらずとも、明應頃の諸工に入れていただければ結構でした。
鎌倉時代に見た札もありましたが、本作は小太刀姿ではなく、先反りのついた片手打ちの打刀姿である点が違います。
太刀や打刀の戦いでは少しでも長い方が有利ですが、刀身が長いほど重くなり両手で扱わなければなりません。
片手打ちというのは二尺前後と短いですが、軽いので片手で振ることができます。
片手で持つと体を半身(はんみ)にして構えられますので、その分リーチを伸ばすことができ短い分をリカバ-できました。
なぜ片手打ちが作られたのか明確に説明されたものを知りませんが、あくまで想像として申し上げますと、嘉吉元年(1441年)足利義教が赤松満祐の屋敷で宴会中に暗殺されるという嘉吉の変がおきました。
その当時は太刀を佩いていた時代のため、屋敷内で腰に指していたのはせいぜい短刀くらいのもので、敵に囲まれた時には抵抗出来なかったのではないかと思います。
そういうことがあって、室内戦を想定した大腰刀が求められたのではないかと思っています。
令和5年9月23日、公益財団法人日本美術刀剣保存協会より、荒川史人先生にお越しいただき、関市文化会館にて第3回定例研究会を開催いたしました。
1号刀 太刀 無銘 古千手院
磨り上がっていますが、腰元に反りがつき、先へいって伏さりごころで元先の幅差がついて、鋒が小さい。この姿を捉えて、古い時代の札が多く入りました。
刃文に目を移すと焼きが低く、匂い口がうるんだように見える部分もあり、入札では綾小路定利といった札もありました。
地鉄が綺麗だということで粟田口系の札もありましたが、綾小路や来國行などを含め京物の古い出来であれば焼き頭の所に断続的な飛焼が入ります。
本作にはほつれ、砂流し、二重刃風といった縦の変化があり、山城よりも大和に見られる刃中の働きが確認できます。
大和の中でも保昌であれば総柾に近い鍛え肌となり、当麻であれば相州伝に紛れるような金筋や砂流しが入って沸づく出来になります。
手搔ですと一段と沸が厚くつき、尻懸だと形のはっきりした互の目が見られます。
古い出来を示し、大和の特徴を見せつつ、他の流派に無い特徴を持っている点から千手院と見ていただければと思います。
2号刀 太刀 銘 備前國長舩住近景/嘉暦二年五月日
長光の弟子と言われている近景の太刀で、
長光の晩年よりも時代が下った嘉暦年紀が入っています。
僅かに磨り上がっていますが、作られた当初の姿が概ね分かるかと思います。
刃文は小丁字、小互の目が入って下半は盛んに乱れ、上半は大人しい直刃を基調としています。
映りを見ると、この時代の長舩物によく現れる乱れ映りとなっています。こうした要素を捉えて長光、ないし近景と入札されていました。
本作の特徴は長光によく見られるものであり、近景の特徴と言われる逆がかった刃や、長光に比べて肌立ったところが交るなどの点は見られず、長光に近い作風を示しています。
3号刀 脇指 銘 羽州住人月山近則/永正九年二月吉日
一尺九寸二分なので脇指という区分ですが、茎が短く片手で使う刀として作ったのであろう姿をしており、時代を捉えるのが難しかったと思います。
鋒が延びて重ねは薄く、南北朝期の大磨り上げにも見えますが、それにしては反りがつき過ぎています。
慶長新刀もこれほど鋒が延びていたら反りが浅くなります。新々刀期でこの鋒であれば、もっと重ねが厚くなります。
製作当初からこの寸法だったと考えたなら、応仁文明以降から永正大永あたりの片手打ちの打ち刀が流行した時代の作であると見ることができます。
刃文を見ると焼きの低い細直刃で、二重刃が入っています。特徴を見極めづらい刃文ではありますが、姿の時代性を捉えて末古刀期の刀工に札が入っていました。
地鉄は杢目が立っていたり、流れていたりと整わなさがあり、棟も丸棟になっています。
こうした点から地方鍛冶と捉えられて、波平や冬廣、二王などの札も見られました。月山と捉える特徴として、表裏の中程に綾杉風の肌が見られます。
4号刀 脇指 銘 粟田口一竿子忠綱 彫同作/元禄十五年八月日
表に珠追い龍、裏に降り龍の非常に特徴のある彫物があります。刃文を見ると徐々に焼幅が広くなる大坂焼出しがあり、湾れに互の目を交えて沸づいています。
地鉄は小板目が精美に詰んでいます。
こうした特徴から一竿子忠綱以外には持っていきづらい作品だと思います。
5号刀 刀 銘 水心子正秀/出硎閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜
水心子が特に若い頃にやっていた大坂新刀写し、とりわけ助廣を始めとする濤瀾風の刃を狙って焼いた作です。
本作は助廣や助直、照包などと比べると、新々刀期なので地鉄が無地風に近いような小板目がより詰まった鍛えをしています。
また水心子の沸出来の作品の特徴として、処々に黒々とした荒沸がつくといった点も見られます。
新々刀期に濤瀾刃を焼く刀工として、加藤綱英や綱俊といった札もありましたが、本作のような大互の目を基調とした濤瀾刃ではなく、湾れを主体とした濤瀾刃です。
第2回定例研究会
令和5年7月22日(土)、岐阜市南部コミュニティセンターにて第2回定例研究会と初心者講座を開催いたしました。
午前には当支部主催の初心者講座を行い、様々な時代、国の五振りの名刀を鑑賞いただきました。
午後の研究会では講師として当支部の近藤支部長に講師をつとめていただき、今回は初心者の方も参加されていますので、なるべく分かりやすく丁寧に解説していただきました。
一号刀 短刀 銘 備州長舩倫光/康安二年八月日
身幅広く、反りついて、重ねの薄い、いわゆる南北朝の姿です。
湾れ主調の刃文に鮮やかな棒映りが立つところから、備前兼光一門とみることができます。
兼光一門には兼光をはじめとして、倫光、基光、政光の四工が有名ですが、政光はこづんだ刃を、基光は角ばった刃を焼く違いがあります。
倫光は一番師の兼光に近いとされていますが、本作は師の兼光と比べますと、鍛えの精良さに一歩譲るところがあり、地沸や地景といった景色も少し不足した感じがします。
また兼光は帽子がほとんど尖っていますが、本作は大丸風に焼いています。
こういったところで兼光ではないなと見て頂きたいところです。
この南北朝の短刀の姿について解説しますと、まず短刀は鎌倉後期くらいから流行していますが、このころの短刀というのはトドメをさす、つまり突き刺す姿が主流でした。
その後、南北朝時代に入ると戦の規模が大きくなり、自分の手柄を証明する必要がでてきます。そのために首級を掻き切ったり、耳や鼻を削いで、自分の戦功の証としました。
そういった用途から身幅を広く、厚さを薄くして、切り裂きやすいようになっています。
本作には棒映りという直線状の映りがたっていて、それに向かって刃縁から立ち上がる映りが繋がっています。
これは備前長舩が得意としており、棒映りをみたらまず備前の主流とみて間違いありません。
今回は多くの方が備前に入れられましたが、残念ながら倫光の札はなく、兼光の札が多くありました。
二号刀 短刀 銘 兼定
本作は末関の疋定の短刀です。
若干重ねが厚いため少し手持ちが重く、反りがなく、フクラが枯れて鋭い戦国時代の姿をしています。
フクラとは切先の刃先の線のことで、Rが小さい場合はフクラ張ると言います。フクラ枯れるとはフクラのRが大きく、鋭くなっていることで、戦国時代の特徴です。
皆焼を焼いているところから戦国時代に流行した鎧通しとみて、末備前の札が多かったです。
本作は重ねが厚めではありますが、末備前の場合はもっと厚くなります。
これを美濃とみていただきたいのは、備前であれば刃文は腰開きといって谷底に丸みがありますが、この短刀にはそういったところがみられません。
それどころか処々三角形に尖るところがみられます。この尖り刃が入るのが美濃の特徴です。
また三ツ棟の真ん中の幅が狭いところも美濃の特徴と言われています。
以上の点と鍛えが非常に綺麗なところから、素直に兼定とみていただきたい短刀でした。
鎧通しは鎧の錣の隙間から刺したように誤解されていますが、そうではなく鎧で覆えない脇の下や股間に突き刺してから急所に向かって捻るものです。
その為に重ねが厚く、皆焼にすることで捻りに耐える強度を持たせています。
また通常の短刀の様に左腰に指していると、組討ちの最中敵に取られたり、折角組み伏せても一旦体を離さないと抜くことができないため、右腰へ廻し柄を後ろへ向けて指しましたが、これを馬手指しといいます。
先に述べたようにこういった鎧通しは末備前に多く、意外に関には少ないです。
これは戦国時代の武士の戦い方の違いだと思います。
備前の需要者の中心である西国武士たちは、戦の規模がさほど大きくないため、一対一で戦う機会も多かったのだと思います。
それに対して関の主な需要者である東海地方の武士は、戦の規模が大きいため集団戦が中心であり、組討ちすることが少なかったと思います。
とはいえ関の刀工も全国展開してあちこちに供給していますので、地元から需要がなくとも、よそからの注文であったかもしれません。
三号刀 刀 銘 肥前國忠吉
反りが深く一見古刀に見えますが、身幅広く、
元先の幅差が少なく、中切先伸びて、少し先反りが加わった慶長新刀の姿です。
鎬幅が広く、鎬が高いのは大和伝の特徴ですが、本作は冠落とし造でありこれも大和物に多い作り込みです。
江戸時代初期に大和物を写した刀工と言いますと、仙台國包、南紀重國、初代忠吉が挙げられます。
國包は保昌を狙っていますので、総柾鍛えになります。
南紀重國の場合は手掻を狙い、綺麗な冴えた鍛えをしており、刃縁も沸が深くつき、本作の様に若干肌立ったり、匂口が締まったりはしません。
こういったところから消去法で肥前の忠吉にたどり着きます。
本作は珍しい造込みをしていますが、本歌は光山押形にも所載されている当麻の友清という太刀で、それを写したものと思われます。
忠吉は慶長5〜6年にこの当麻の友清写しを3〜4振り作っていることが確認されています。
小糠肌の様なのちの肥前刀の典型作ではありませんが、初期の忠吉の非常に出来の良い刀だと思います。
まだ古刀の雰囲気があり、古刀と見られた方が多かったです。
慶長のころは写しものの多い時期です。先述した刀工の他にも國廣や康継などが様々な写しを作っています。
忠吉には長義や来写しのほか、こういった大和写しも見られます。
四号刀 寸延短刀 備州長舩次光/應永廿八年十月
区分上刃長が一尺を超えるため脇指としていますが、寸伸び短刀という大ぶりの短刀です。長さの割に身幅の細い姿は應永ころに備前と京都で流行しました。
京都だと應永信國がこういったものを作っていますが、應永信國はアルファベットのスモ-ルエムの様な二つ連れ互の目を繰り返す手癖があり、必ず手の込んだ彫物を入れていますから、應永信國とは見られません。
では備前のどこに持っていくかといいますと、盛光や康光を中心とした應永備前と見るのが普通ですが、これらの刀工の場合はより明瞭な棒映りが立つことが多いです。
この短刀は棒映りというよりは、直ぐ映りに向かって刃縁の先から映りが立ち上がっていくようで、そこまで技倆が追いついていません。
乱れ映りの方が華やかにみえるので、棒映りを一格下のように思っている方がいますが、両方の映りがある兼光を見る場合、決して棒映りが劣っているということはありません。
また兼光と同時代に活動していた元重や大宮の盛景に棒映りは無いところからも、棒映りは技倆が高くないとできなかったのだと思います。
次光は現存作品が少なくあまり素性のはっきりしない刀工で、いまのところ小反り派に分類されてはいますが、この短刀をみる限り應永備前にあってもおかしくない作ですので、盛光と康光の札も当たりとしました。
五号刀 短刀 銘 村正
身幅が広く、反りがあるところは一号刀の様な南北朝姿に近いのですが、一号刀と比べると若干フクラが枯れ、鋭い感じがします。
これは戦国時代の美濃あるいは東海道筋にかけて流行した短刀の姿であり、美濃であれば兼房や氏房、氏貞などがこういった姿を得意としています。
村正に関しては鍛えにこれが村正だというような特徴がみられるものではないのですが、刃文は非常に沸が強く、物打ち辺りは美濃のような頭の丸い互の目を揃えていますが、下へくると起伏の激しい乱れを浅い谷で結び、短く直ぐに焼出しているところに村正らしい個性がみられます。
美濃にもこれ近い作がないわけではありませんが、美濃でしたら映りや尖り刃などが交じってもよいと思います。
表裏が揃った刃文も村正とみて抵抗のない教科書通りの村正でした。
二号刀の兼定の時に組討ちに使う鎧通しは末備前に多く、美濃に少ないと説明しましたが、逆に本作のような敵の首級を掻き切るものは末備前には少ないです。
これは東海地方の武士が組討ちといった接近戦を嫌い、信長が長槍や鉄砲を簡単に導入できたように集団で距離を置いて戦うことを好んだのだと思います。
村正は非常に有名で数が多く残っています。
おおむねこういった箱乱れや、起伏が激しく、谷の部分の刃文が消えそうなくらい低く焼くのを得意としています。
第1回定例研究会・総会
令和5年5月27日(土)、関市文化会館にて第1回定例研究会・総会、初心者講座を開催いたしました。
午前には当支部主催の初心者講座で、日本刀のあらましの説明から、鑑賞時の安全な取り扱い方やマナー、簡単な見所を解説して実際に五振りの刀剣を鑑賞いただきました。
午後の研究会では講師として日本美術刀剣保存協会富山県支部より山誠二郎氏に講師としてお越しいただき、山城伝をテーマに据えた名刀を五振りご用意いただきました。
当支部では無銘の来と無銘保昌は鑑定刀に使わないという不文律がありますが、意外にも全般的に好成績でした。